物語ることについての随筆

主に映画やドラマについて、個人的な思索

鹿と鬼が踊るMidnight

先日、縁あって奈良に行ってきたので、今回は奈良で出会った鹿について書こうと思う。

鹿が、というより、「鹿がいる森」が物語ること、物語が生まれる過程について。
 

 

1.
10月…「天高く馬肥ゆる秋」とはいうが、そういえば馬は見なかった。
 

 
奈良は空が広い。東京のような高層ビルが無いため、かえって興福寺五重塔の高さが際立つ。クレーンの無い時代に、よくもまぁこんなデカいものを建てたものだと感心していると、その手前の松の木の下に、角を切られた年寄りの鹿がいるのが目に入った。ちなみにホンシュウジカのオスの平均寿命は10〜12歳らしいが、まるで何世紀も前からそこに居たかのような顔をしていた。
 

 
それから東金堂と宝物館で阿修羅像などの仏像をたっぷり眺めてから外に出ると、鹿せんべいを手にしたちびっ子らが数匹の鹿に囲まれて怯えていた。そして宝物館のすぐ裏の公園に入れば、あちこち鹿だらけ、足下には鹿のフンだらけである。
 

 
観光地だから人間に慣れているとはいえ、鹿の距離感は犬ほど近くはない。かといって、猫のように警戒して睨んでくることもない。ただ、こちらがその細長い顔を眺めると、鹿は真正面からじっと見つめてくる。何を感じているのか、あるいは何の感情も抱いていないのか、こちらをただじっと見つめ返すのだ。
 
その落ち着きぶりは馬や牛に近いが、頭の高さが人間より低く小柄なために、近づいてきても圧迫感はない。かといってレトリバーなどの大型犬とも違うし、なんなら細身のボルゾイの方がもっと怖い気がする。
 

 
かたや仔鹿は、トイプードルやチワワのように頭が小さく、瞳はつぶらで、折れてしまいそうなほど華奢な脚でトコトコと駆けていく。その愛らしさを見れば、「バンビ」のようなキャラクターが人気なのもうなずける。
 
鹿が擬人化されるときには高貴な人物、あるいは美男・美女のイメージを付加されやすいのも、細身ながら筋肉質で、プロポーションもよく、顔つきに品の良さを感じるからだろう。ちなみに、私の行った頃には角切りが終わったばかりらしく、日中に見た鹿たちには角がなかったが、牡鹿の立派な角は王冠のようでもある。
 
鹿が貴族や王家などの権力者のイメージと関連づけられるのは、彼らが娯楽としての狩りの対象だからでもある。鹿の頭の剥製を部屋に飾ったり、ジビエ料理として親しまれていたり。
 
もっと時代を遡れば、角や毛皮は部族の英雄たちの力量を誇示する戦利品であり、あるいはシャーマンたちの呪術の道具、儀式的な踊りに使う仮面の装飾品になった。鹿の角には、古今東西の人々を魅了する美しさが備わっているらしい。
 
鹿に限らず、狩りの対象になる強い獣(熊・狼・虎など)は神格化され、その毛皮はもちろん、角、爪、牙などの攻撃に使う=力が宿る部位は特に高い価値を付加される。
 
興福寺で見た十二神将八部衆の衣装に動物のモチーフが使われているように、その動物にまつわるイメージが物語る能力(空を飛ぶ、俊足、怪力など)を、それを身につける人物に付加する試みは、古今東西で見られることだろう。迦楼羅(かるら)に至っては鳥人間、笑い飯風に言えば鳥人(とりじん)だ。
 
2.
ところで、おそらくは中学の修学旅行ぶりに奈良に来たわけだが、私はこのときまで鹿の鳴き声がどんなだったか、すっかり忘れていた。というより人生を通じて、鹿の鳴き声を文字にするとどう表現されるのか、まったく記憶がないことに気づいた。普段それほど馴染みのない羊でさえ「メエメエ」と鳴くことを知っているのに。
 
では実際はどうかというと、鹿たちはドアが軋む音のように「キュイーッ」と鳴いていた。それはトンビのようでもあり、赤ん坊のようでもあった。つまり、そこそこ離れた場所にいる人間の耳にもはっきりと聞こえるような、高く、長い音で鹿は鳴く。
 
その日、私たちは閉館ギリギリに東大寺を出ると、せっかくだから春日大社の参道を行けるところまで歩いてみようということになった。その時点でだいぶ日が傾いていたので、参道の林の中はかなり暗い。
 
するとあの、鹿の鳴き声が聞こえてくる。赤ん坊のようでもあるし、女性の悲鳴にも思えてきて、なんだか気味が悪くなった。ふと振り向けば、また別の鹿が自分のすぐ近くに立っていたりするので落ち着かない。
 
せめて石灯籠に明かりはつかないものかと眺めていると、その後ろに動く影が見え、はっと息を飲む。と、それはただの野良猫であった。
 
「なんだ、猫か」と、フィクションでしか聞いたことがない台詞が口から溢れた。時計を持った白ウサギでなくてよかった。しかし思い返せば、奈良に来てから猫を見たのはあれが初めてだった気もする。
 
春日大社の門が閉まっているのを確認して、もと来た道を戻る頃には、石畳の参道はすっかり真っ暗だった。暗闇のあちこちから鹿の鳴き声があがり、さっきよりも多く鹿のシルエットが浮かぶ。あるものは目の前をさっと横切り、あるものはじっとこちらを見つめてくる。
 
そのとき、私は奈良に来て、初めて角のある牡鹿と出会った。しかし姿は見えず、ただ立派な二本の角の影だけがあるのみ。そして顔こそ見えないが、彼に見られているような気がした。
 
二本の角、暗闇、視線。
 
3.
鹿の角は王冠のようでもあるが、角を持つのは鬼であり悪魔である。いわゆるサタンは鹿ではなく山羊だし、日本的な鬼もだいたい牛のような角だが、鹿の角の複雑な形の方がよっぽど悪魔的な魅力を感じる。
 
それに、意外と忘れがちだが、鹿をはじめとする四足歩行の動物の多くは、後ろ脚だけで立つこともできる。二足歩行を人間や猿だけの特権と思いこんでいると、角を生やした動物が二本の脚で立ったときのシルエットを見たら、本当に悪魔が現れたと勘違いしてしまうかもしれない。
 
私のこの鹿との出会いの話から、「もののけ姫」に出てくる「シシ神」を連想した方もいるだろう。大きな角を生やし、人間のような顔をした鹿が、主人公アシタカをじっと見つめる瞬間。かたや中世イギリスでは、アーサー王は森の中で「唸る獣」と目が合う。こちらは角ではなく、脚が鹿らしい。頭は蛇で、胴体がヒョウ、尻がライオンなのだとか。
 
余談だが、私は東京の自宅近くでこれに似た経験をしたことがある。夜中に公園のフェンスの上をゆっくり歩いていたハクビシンと目が合ったのだが、一瞬、私に向かってニタっと笑ったように見えた。他にはタヌキに出会ったことがあるが、彼らはむしろ困ったような顔でスタコラと逃げていった。
 
犬や猫を飼ったことのある人は特に身に覚えがあると思うのだが、動物も人間と目を合わせて、意思疎通をはかろうとする時がある。あるいは両者が目を合わせた瞬間に、回路が繋がり交流しようとする感覚が生まれる。
 
これは身体感覚の話であって、比喩ではない。
 
人間も動物である以上、他の生物の視線に敏感になのだろう。私たちが鹿を見つめたら向こうも見つめ返してくるように、たとえ暗闇の中であろうと、視線を向けられているという感覚は、動物である私たちには少なからずストレスになるはずだ。
 
4.
現代のようにLEDがビカビカと光っていなかった時代には、夜はもっと暗かったはずだし、もっと様々な種類の動物に出くわしていた可能性がある。猿、イノシシ、野良犬、梟やミミズク、蛙やトカゲ、イタチや狐、さらには蜘蛛などの虫も。松明や提灯の灯りを持っていないなら、満月がどれほど眩しく見えたことか。
 
同時に考慮すべきは、インターネットはおろか、印刷・出版の技術がなく、そもそも文字の読み書きを学ぶことが特権だった時代のことだ。「どうぶつ図鑑」を読んだことのない人々は、自分の目で実際に見たことのない動物のことは、人づてに「どうやらなんとかという、角のある生き物がいるらしい」と聞くことしかできない。
 
真っ暗闇の中で、名前も知らない、見たこともない動物のシルエットと鳴き声だけを聞いて、恐怖せずにいられるだろうか? 仮に何種類かは知っていたって、熊や狼なら死を覚悟するだろうに。
 
映画「THE BATMAN ザ・バットマン」の序盤、覆面をした強盗がゴッサムの街の暗がりを見つめて、何かの気配に立ちすくむときの恐怖。コウモリは姿が見せないからこそ、人は洞窟の奥から響く羽ばたきの音と金切り声に耳を澄ませ、闇をじっと見つめてしまう。
 
5.
人は目から得られる情報が少ないときには、その他の感覚、特に耳に頼ろうとする。
暗闇に響く鹿たちの鳴き声は、まさに「バッコスの信女」のようだった。鹿の毛皮を羽織り、葡萄酒の神ディオニュソスを讃えて踊り狂う女(マイナス)たちの叫び。しかし逆に言えば、森の中で悪魔や魔女の高笑いを聞いたという人は、実際には鹿とすれ違っただけかもしれない。
 
レヴィ=ストロースの「仮面の道」によれば、アメリカ大陸の古い民間伝承には「泣く赤ん坊」あるいは「赤ん坊のように泣く精霊」が登場する話が複数あるらしい。メキシコのある言い伝えでは、どこからともなく赤ちゃんの鳴き声が聞こえてくるが、可哀想に思ってその子を探しに行った者は、川に引きずり込まれて溺れ死んでしまう。
 
実は、その声の主はカワウソなのだそうだ。近年はSNSでも人気のカワウソだが、メキシコの大草原で、真夜中にその声を聞いてしまったら、きっと私たちは騙されてしまうだろう。
 
ブレーメンの音楽隊」も、子ども向けの話だから笑っていられるが、夜の闇にロバと犬と猫と鶏が積み重なった大きな影を見たら、そして彼らが同時に叫んだら、アーサー王が出会った「唸る獣」には及ばずとも、かなり恐ろしいはずだ。
 
「なんだ、猫か」で済めばいいが、猫も人を騙す生き物だ。暗闇で「ニャア」と聞こえたら、若い女性や子どもと勘違いしてしまうかもしれない。むしろ逆に、猫ではなくキャットウーマンの可能性もある。
 
6.
つまり動物の擬人化の反対、人間を動物にたとえる行為。
 
「人間狩り −狩猟権力の歴史と哲学−」(著グレゴール・シャマユー)によれば、かつてスコットランドでは、国から追放された犯罪者は法律では守られない存在=動物扱いされたらしい。そして帰る家を失い、森に住むようになった彼らは「Vargr(狼)」と呼ばれ、狩りの対象となり、猟犬に殺されたという。
 
ならば森に逃げた犯罪者が集まって盗賊になり、捕まえた動物の毛皮を羽織っていてもおかしくないだろう。その頭領は鹿の角を、冠のように頭に巻きつけていたかもしれない。鬼のパンツはカルバンクラインではなく、虎の毛皮だ。
 
結局のところ、大昔の人々が森で出会った恐ろしい存在が、動物だったのか人間だったのか、本当に悪魔や亡霊がいたのか、現代の我々にはそれを知る方法はない。というより、当時の人々も理解できなかったからこそ「こんな恐ろしいことがあった」と仲間に打ち明け、その噂はあちこちの村に伝わり、民話となり伝説となり、今も語り継がれているのだろう。
 
狼男は満月の夜に現れる。先日の皆既月食のように、赤い月が昇る夜には、大昔の人々は身を震わせて怯えていたことだろう。あるいは葡萄酒に酔い、鹿の毛皮をまとった女たちと踊っていたかもしれない。
 
森の中の乱痴気騒ぎといえば、「サンドマン」の記事で紹介した「夏の夜の夢」には、頭を馬に変えられた男が登場する。だが、馬の頭をかぶってヒヒーンと叫ぶ酔っぱらいなら、ハロウィンの渋谷にもいたはずだ。彼も街のどこかで、美しい鹿と目が合ったかもしれない。
 
天高く馬肥ゆる秋、朝が来るまで馬鹿騒ぎ。
 
お後がよろしいようで。
 

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