物語ることについての随筆

主に映画やドラマについて、個人的な思索

バズ・ライトイヤーは「バズ・ライトイヤー」の夢を見るか?

今週のお題「SFといえば」

 

先に断っておくと、私は先日公開されたばかりの映画「バズ・ライトイヤー」は観ていない。今回はバズ・ライトイヤーというキャラクターと、彼にまつわるSF的問いかけを題材に「物語ること」について考えてみようという記事である。

 

トイ・ストーリー」シリーズの1作目に登場したバズ・ライトイヤーというキャラクターは、少々ややこしい設定だ。彼自身はアニメの主人公バズ・ライトイヤーを模したおもちゃであるにも関わらず、自分のことを「勇敢な宇宙のヒーロー、バズ・ライトイヤー」本人だと思い込んでいる。その思い込み故に、カウボーイ人形のウッディを苛立たせる。
 
「お前はただのおもちゃなんだよ!」と。
 
はじめのうちはウッディに取り合わなかったバズだが、TVのCMを見て、ようやく真実に気づいてしまう。
 
「※このおもちゃは飛べません!」
 
自分は宇宙の平和を守るヒーローじゃないし、空も飛べない、ただのおもちゃなのだと、すっかり自信を失ってしまったバズ。しかし最終的には、彼は再びアイデンティティ(自己同一性)を取り戻す。これが私=バズ・ライトイヤーなのだと。
 

アイデンティティをめぐる問題は古今東西の物語で繰り返し問われるテーマだが、特にこのバズのようなケース、つまり「自分のことを○○だと思い込んでいたが、実際には○○本人ではなかった」パターンは、思考実験のひとつである「スワンプマン(沼男)問題」として知られている。沼にハマったオタクの話ではない。おもちゃの方のバズは「バズ・ライトイヤー」沼にハマったオタクっぽさはあるがそういう話ではない。
 
沼のそばに立っていた男に雷が落ちて、男は死んでしまった。同時に沼に雷が落ちて、その沼から死んだ男そっくりの人間が現れる。沼男は死んだ男の記憶を持っていて、自分がその男本人だと思い込んで、死んだ男の家に帰る。沼男は死んだ男本人ではないが、沼で生まれたこと以外は本人とほぼ同じである。この場合、果たして両者は全くの別人だと言い切れるのか?
 
よく知られている作品だと、SF映画の傑作「ブレードランナー」および続編の「ブレードランナー2049」と、その原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も、スワンプマン問題に似た問いかけをしている。限りなく人間に近い思考能力を持つ人工知能(AI)を搭載し、限りなく人間に近い見た目をしたアンドロイドは、人間との違いを明確に判別することができるだろうか? 
 
おそらく「ブレードランナー」のこのテーマのインスピレーション元は「チューリングテスト」だろうと、ウィキペディアのスワンプマン問題の項を参照するだけでもなんとなく想像できる。互いに顔が見えない状態でAIと人間が言葉でやりとりしているとき、両者の会話に違和感を感じなかったとしたら、人間とAIの区別はつけられないかもしれない。
 
SF作品の魅力は様々あるが、私は特にこのスワンプマン問題のように、科学的な知見を用いて哲学的な思考実験ができるところが、想像力を刺激されて楽しいと感じる。
 

かの有名なデカルト「我思う、故に我有り」は、この世界の全てが幻かもしれないと疑ってみたとしても、そのように考えている自分の「意識」だけは少なくとも存在するだろう、ということを確認した言葉だった。
 
バズの場合はどうか。当然、彼にも意識はあるが、同時に「記憶」がある。「自分は宇宙のヒーロー、バズ・ライトイヤーである」という、植え付けられた記憶=架空の物語が。しかしこの記憶=物語は、おもちゃとしての彼自身のことは何ひとつ表現していない。おもちゃとしてのバズは生まれたばかりの、いわば赤ん坊であるにも関わらず、自分が経験していないことを記憶している。
 
我思う、故に我あり。しかし、この記憶は我のものではない場合、いま思考している我は何者なのか。記憶があるのに、なぜ我はその記憶の持ち主ではないのだろうか。
 
オカルト・スピリチュアル的な話題になってしまうので、あくまでもそういう証言があるという意味で紹介するが、現実世界でもまれに、前世の記憶を持って生まれてきた子供が存在するらしい。
 
Netflixの「死後の世界を探求する」のエピソード6「転生」には、既に亡くなっている映画俳優の記憶を持つ少年と、かつて硫黄島の戦いで戦死した米軍の飛行士の記憶を持って生まれた青年がインタビューに答えている。彼らの場合は、前世の記憶に悩まされることはあっても、「今ここに生きている自分は自分自身だ」という感覚も同時に持ち合わせているようだ。
 
彼らがバズと違うところは、彼らの場合はあくまでも「その記憶は前世のもの」という認識があることだろう。おもちゃのバズが生まれながらに持っていた記憶は、現在と地続きの記憶なので、それが嘘だと気づいたときの動揺は相当なものだろう。
 

バズの落胆は、精神・魂レベルだけでなく、身体的レベルでも彼を苦しめる。
 
人間とアンドロイドの違いは、思考能力あるいは意識のレベルでは、ほとんど見分けがつかないかもしれないが、身体的レベルでははっきりと違いがある。神は自らの姿に似せて人間を作ったというが、あくまでも人間は神ではないように、どれだけ人間そっくりに作られたとしても、アンドロイドの機械の身体は人間の肉体と同じではないフランケンシュタイン博士の作った怪物は、ほとんど人間のような心を持っているにも関わらず、その奇妙な肉体のせいで、人間とは認めてもらえない。
 
バズも同様に、見た目は物語の主人公そっくりに作られているのに、彼はあくまでもプラスチック製の人形に過ぎない。だから彼は腕からビームを発射できないし、背中の翼を広げても空を飛ぶこともできず、自分の無力さ、理想の自分との決定的な剥離に、彼は絶望してしまう。
 
つまりバズの場合、経験的記憶(エピソード=物語)と、身体的記憶(空を飛ぶことの喜び、スリル、技術的な成長の蓄積など)の、どちらも現在の、おもちゃである彼とは一致しないのだ。
 
念の為に書くと、ここでは彼の宇宙服も含めて、宇宙服を着ていた時にいつもしていたこと、出来たことも含めて身体的記憶とする。自転車の乗り方を身体が覚えているのと同じだ。特にバズの場合は宇宙服が身体と同化しているので。
 
バズが抱えている自己同一性の不安は、単に「その記憶は偽りだった」と思えるなら、これからは新しい人生を送ろうと気持ちを切り替えられたかもしれない。だが彼は、身体的な記憶、そして「これが私の身体である」と自己の存在を認識できる安心感さえも奪われてしまったのだ。私はこの身体レベルの問題が、かなり厄介な気がする。
 
自己認識と身体能力の不一致は「運動会で怪我するお父さん」的な悲哀を彷彿とさせるが、一方で「心と身体が一致しない」と書くと印象が大きく変わるだろう。例えば性同一性障害の方々が感じているであろう、精神的な不安や苦痛を想像せずにいられない。交通事故で四肢を切断した人の「幻肢痛」もまた、脳が自分の身体の一部を失ったことを認識できずに、その部分を動かせと信号を贈り続けていることが原因ではないかと考えられている。(参考:「記憶する体」伊藤亜紗 春秋社)
 
喉の違和感や発熱など「どこか悪い箇所がある」と思える不調のサインよりも、認知症に見られるような「普段は当たり前にできるはずのことができない」という不調のサインの方が恐ろしく感じられるのは、自分から何か大切なものが失われてしまったような気がするからではないか。
 
つまりバズの場合、自分の記憶=物語が偽りだった、勘違いだったということ以上に、自分の身体から物語が失われてしまったという、身体で感じる喪失感のほうが、彼にとってはショックだったのではないかと思うのだ。
 

「トイ・ストーリー」1作目におけるバズの役割、バズに投影された普遍的なテーマを考えるなら、「若さゆえに自分は何でもできると思いこんでいた若者が、自分の凡庸さに気づいて落胆する」とか「子供じみた夢を持つ若者が、いいかげん大人になれと現実を突きつけられる」というふうに解釈することができるし、逆に「若い頃は夢があったし、なんでもできたはずなのに、大人になってからは自分がつまらない存在に思える」とも解釈できる。それらもまた、自己認識と現実の自分自身が一致しないために発生する葛藤であり、バズはこれをどうにかして解決せねばならない。
 
映画のクライマックスで、おもちゃを改造したり破壊して遊ぶ悪趣味な少年の家から逃げ出したバズとウッディ。もといた家から引っ越していく持ち主の車を追いかけたいウッディは、いちかばちか、バズの背中に縛られた打ち上げ花火に点火し、二人で空を飛ぶ。花火が爆発する前に胸のボタンを押して翼を開くと、バズは自分を縛る糸を引き裂き(象徴的!)、気流に乗って滑空することができた。
 
自分は今、現実世界で、空を飛んでいる! 
 
叶うはずはないと思われた夢を、彼は叶えることができた。この瞬間、彼は自分が信じていた記憶を擬似的に再現する=物語るつまり、空を飛ぶという行為を実行することで、彼は自身の身体的記憶=物語追体験し、やはり自分はバズ・ライトイヤーなのだと納得することができたのだ(自己同一性の確立)。
 
実際には知らないはずなのに、かつて経験したことがあるような気がする出来事を通じて、「ああ、私が求めていたのはやはりこれだったのだ」と納得する=運命を感じるとき、彼のアイデンティティーを支えていた神話が、やはり彼には必要だったのだと気づく。(参考:本棚の上のトムキャット
 
たとえ、それが偽りの記憶=物語であったとしても、彼のアイデンティティーはその物語と身体的なレベルで結びついている。ならば、それを否定する必要はない。
 
むしろ彼が求めていたのは、架空の物語と現実に生きる自分の身体を接続し直し矛盾しない形で再解釈・再統合することだったのではないだろうか。
 
子供の頃の夢は、大人になってしまった後でも、別の形で叶えることはできる。夢=物語は、自分の身体で行為する=語る(あるいは演じる)ことで、何かその本質的な部分は保ったまま形を変えて実現することができる。
 
夢の本質的な部分とはつまり、自分が憧れる理想の存在、自分がそうなりたいと思う誰かを想像するとき、その存在のどの要素が自分の心を揺さぶるのか、という点である。おもちゃのバズにとっての「バズ・ライトイヤーの本質」とは、自由に空を飛ぶ体験=行為の身体的記憶と強く結びついていたようだ。
 
かくしてバズは、おもちゃの身体で空を飛ぶ体験を通じて、再び自分の物語を取り戻すことができた。
 
私たちも、幼い頃に憧れた存在になりたいと願うとき、見た目を真似したいならコスプレすればいいし、空を飛びたいなら、スカイダイビングをしてみるか、飛行機の運転免許を取得するのもいいだろう。ヒーローのように強くなりたいなら体を鍛えたり、人助けをしたいなら警察やレスキュー隊を目指してもいい。きっと夢=物語を語る方法は一つではない。
 
いずれにせよ、人が夢を叶えるために行動するとき、その姿が物語るのものこそが、その人自身の本質=アイデンティティなのだろう。
 
だからこそ、本気で夢を追いかける人は魅力的に見えるし、頑張る若者にはご飯を食べさせたくなるのかもしれない。
 
 
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