物語ることについての随筆

主に映画やドラマについて、個人的な思索

語ること、言葉にすること、物語ること、生きること――日向坂46 ドキュメンタリー「希望と絶望 その涙を誰も知らない」

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「物語にしてほしくない」
「ストーリーにされたくない」

 

 アイドルグループ・日向坂46のキャプテン、佐々木久美は、コロナ禍の2年間と今年3月末の東京ドーム公演までの活動を振り返り、そう語った。
 
 彼女たちのドキュメンタリー映画を監督した竹中優介もまた「美談にはしたくなかった」と語っているし、少々「盛ってるで!(by まなふぃ)だった予告編に比べれば、実際に完成した作品は淡々として抑制の効いた作品だったと思う。
 
 しかし、この映画のタイトルが”物語る=喚起させる”イメージはやけに”ドラマチック=劇的”で、どうしても観客を身構えさせる。
 
 
「希望と絶望 その涙を誰も知らない」

 この映画はあくまでドキュメンタリーだが、事実が他者の語りによって物語になる可能性からは逃れられない。監督によって取捨選択された記録映像が、そこに映る日向坂メンバーの姿が、何かを”物語る=印象を与える”以上、観客は映画では「語られなかったこと」を自分の脳内で補完し、ストーリーにしてしまう可能性は否定できない。
 
 本作で主な”語り部”としてインタビューに答える佐々木は、
 
「私たちは生きた人間だから」
「(辛いこともあったけど仲間と共に乗り越えた、という)ストーリーとして消化(昇華?)されたくない」
 
とも語っている。「消費」されたくない、だったかもしれない。自分たちが経験した苦しみを一方的に分かりやすく噛み砕いて→消化して、お涙頂戴の感動の物語として昇華されたくない、消費されたくない。
 
 日向坂をはじめとするアイドル・芸能人・著名人の人生の一部は、世間からは物語・ストーリーとして消費される。Instagramの”ストーリー”という機能がまさにそうであるように、人生のうちのほんの数秒がストーリーとして切り売りされていく。
 
 アンディ・ウォーホル「将来、人は15分間だけ有名になれるだろう」と未来を予想していたが、tiktokなら15秒間だけ有名になれる。ファンはまた、その切り取られ、フィルターで加工された15秒間にものすごい「意味=価値」を感じて夢中になる。
 
 人は「見たいもの=理想=ideal」しか見ない。
 
 しかし、人生の大部分はSNSにはアップされない。日向坂46が歩んだ2年と3ヶ月=約800日に起きた出来事は、その全てを120分には収められない。それに、カメラがどれだけ事実を映し出そうと、彼女たちが自分の身体で実際に経験したことまでは、フィルムには残らない。要するに、この映画では「語られない」時間の方が圧倒的に多い。
 
 人は「見られる=見ることが可能なもの」しか見ることはできない。
 

 この映画には、日向坂46がコロナ禍でグループの活動を制限されたり、メンバーが相次いで体調を崩して休業したりと、彼女らが心身ともに疲弊した姿が記録されている。加藤史帆が苦痛に顔を歪める場面や、濱岸ひよりがコロナに感染したと聞いて渡邉美穂が泣き崩れる姿、そして小坂菜緒が休業から復帰しても、未だに万全とは言い難い状況であることなど、胸が痛くなる場面も多い。
 
 キャプテンとして、当事者としてその場に立ち会ってきた佐々木久美が、こうした出来事を無視して「キラキラしたアイドルの青春のストーリー」と思われるのも、逆にこれらの出来事を踏まえて「辛い経験をみんなの絆で乗り越えた、感動の実話」にされるのも、快く思わないのは理解できる。
 
 しかし同時に、この映画に描かれたネガティブな面”だけ”を真実と思い込み、「アイドルがファンに見せるポジティブさは”全て”嘘だったんだ」と過剰に反応するのも違うだろう。彼女たちを一方的に「悲劇のヒロイン」あるいは「哀れなアイドル」扱いするなら、それもまた「ストーリーとして消費」する行為ではないだろうか。
 
 念の為に書いておくが、私は彼女らが経験した苦悩を軽視していいと言っているのではない。
 
 本編でも描かれていたように、セットリストの見直しなど、現場レベルでは話し合って改善できることも多い。長期の活動でストレスが溜まり、メンバー間でモチベーションに差が生まれるのは、映画や演劇、音楽、あるいはスポーツの分野で普通に起きることだし、ハードな練習をしたら、休憩時間は疲れて横になりたくもなる。経営陣とプレイヤー側で見ているものが違ってしまうのも、ある程度は仕方のないことで、それもまた対話を重ねて解決していくしかない。
 
 一方で、例えば真夏の日中での野外ライブは、どれだけ熱中症対策をしていても厳しいものがあるだろう(※今年は夕方開演らしい)。また、メンバーのうちの誰かが過酷なスケジュールで疲弊して、おそらくは心身のバランスが崩れてきているであろう姿を見ると、その周りのメンバーとスタッフの心配、不安、そして後悔も相当なものだったと思う。
 
 この映画には描かれなかった=語られなかったことだが、ネット上の誹謗中傷や事実と異なる憶測による批判=他者によって歪曲されたストーリーが彼女たちに与える影響もあったかもしれない。
 
 何より、コロナ禍が世界中の人々に与えた影響がどれほどのものだったか、改めて振り返ってみてほしい。特にエンタメ業界が「不要不急」のレッテルを貼られ苦境を強いられたこと、Stay Homeで物理的に人と会えない時間があったこと。無観客ライブ。
 

 ところで、先に挙げた真夏の野外ライブの後、運営から「はじめて『誰よりも高く跳べ』で感動できなかった」「がむしゃらさが足りない」と言われて、悔しさのあまり、佐々木久美と加藤史帆が叫ぶ場面があった。
 
「どーせ、うちらは『か弱い女』だよ!」
 
 自分たちを「か弱い女」扱いされるのは嫌だし、猛暑の中で全力を尽くしたのに「がむしゃらじゃない」と思われるのも嫌だ。ならば同様に、この場面を見て「大人たちに勝手なことを言われる可哀想なアイドル」のイメージ=ストーリー”だけ”を受け取るのも違うだろう。
 
 この映画を見て辛い気持ちになった方は、ぜひ「3回目のひな誕祭」のDVD、Bru-ray限定版の特典映像を見て気持ちを落ち着けて頂きたい。
 
 
 彼女たちがバラエティ番組で見せる笑顔は嘘ではないし、メンバー間で気持ちのすれ違いがあったとしても、彼女たちの仲の良さは嘘ではないだろう。
 
「2回目のひな誕祭」で、約1年3ヶ月ぶりに日向坂メンバーとおひさま(ファン)が顔を合わせたとき、あの瞬間に彼女たちが流した喜びの涙も、嘘ではないはずだ。
 
 東京ドーム公演の映像をDVDで観たとしても、ライブ=live=”生きた”人間の声は、肉体と呼吸と汗と血液の躍動は、その場に居合わせた人にしか理解できないし、そこで彼女たちが実際に経験し、感じたことは彼女たちにしか分からない。
 
 革命はテレビには映らない――ギル・スコット・ヘロン
(Revolution will not be televised. by Gil scott-heron
 

 

 物語とは「語られたもの」であると同時に、「何を語らないか」を選択した結果、網の目に引っかかって残ったものでもある。そして語られたことも、語られなかったことも、どちらも真実である。
 
 しかし人は「語られたもの」に対して、自分が「見えるもの=理解できること」だけで物事を捉えようとしてしまう。
 
 同時に、人は「見えないもの」ほど見たくなるし、見えないものほど意味=価値があると思い込む。
 
 語り部以外の他人が根拠のない憶測で「語られなかったこと」を補完して、別の物語にしてしまう=「見たいようにしか見ない」可能性もある。
 
 スクリーンに映っていたのは、あくまでも「佐々木久美」加藤史帆という二人の人間が叫んでいる姿だ。たとえ彼女たちが「アイドル=idol=偶像」だとしても、生きた人間である彼女たちから名前と、彼女たち自身の言葉を奪ってはいけない。
 

 暖かな日向にも、けやきの木が立っていれば、その裏側には日陰ができる。同様に櫻の木の下には死体が埋まっているわけだが、私たちは「光と影(陰)」「生と死」の比喩を用いるとき、ついついそれを「良し悪し」「ポジティブ・ネガティブ」の二項対立として理解しがちである。
 
 だが人は、涼しさを求めて木陰で休む(人が木の陰に佇む様を「休」と書く)。死体は土の中で分解され、櫻の木を育てる栄養となる。ならば恐れる必要はない。
 
  私たちはネガティブなものを過剰に恐れるあまり、かえってネガティブになってはいないか。ネガティブなものを否定(=ネガティブ)しすぎてはいないか。ポジティブな経験とネガティブな経験を天秤にかけ、片方が多かったら、もう片方を帳消しにできるわけでもないだろうに。
 
 希望と絶望のどちらも事実なら、絶望は絶望として受け入れ、希望は希望として受け入れる。良い瞬間も悪い瞬間も、そのときに感じたことを忘れたくない、どちらかを無かったことにはしたくない。
 
 なぜならそれが「人生」だから。
 
 自分の人生を、他人から一方的に「悲劇」だの「感動の物語」と決めつけられ、噂話のタネとして消費され、あっという間に忘れ去られていく。
 
 そんなことはまっぴらごめんだ。
 
 佐々木久美が「物語にしてほしくない」と語ったのは、そういう意味ではないかと思う。だが、これもあくまで私が彼女の語りから想像したストーリー=ただの憶測にすぎない。
 
 ところで、佐々木は「完璧なキャプテン」というイメージが強いし、メンバーからの信頼も厚い。だが彼女だって、相次ぐメンバーの休業や、仕事の過酷さに傷ついていないわけがない。むしろ、仲間の苦しみを自分のこととして傷つく人でなければ、信頼されるキャプテンになれるはずがない。
 
 ならば、苦しんでいる仲間を思って傷つき、涙することは、ネガティブな"だけ"の出来事ではないだろう。
 
 櫻坂46の前身である欅坂46が、若者の孤独、怒り、反抗などのネガティブな感情を歌い、それが多くの人々の共感を得たことも忘れてはいけない。ネガティブな想いを歌うことは、はたして本当にネガティブな行為なのか?
  

 東京ドーム公演のアンコールで発表された新曲「僕なんか」が、これまで「ハッピーオーラ」のイメージを打ち出してきたグループにとって、珍しくネガティブな感情を表現し、ネガティブさを乗り越えようとする歌詞であったことは、おそらく偶然ではない。
 
 この曲が休養していた小坂菜緒の復帰を想起させるのは、秋元康がそのように作詞したからだ。秋元は彼女らの姿に触発されて、ストーリー=歌詞を書いている。
 
 日向坂46の楽曲の魅力は、日向坂46のメンバーの個性とその”あゆみ”=ストーリーが持つ文脈によって支えられている。たとえば、けやき坂46時代の「イマニミテイロ」という曲を、彼女らのことを全く知らずに聴いたときと、「日向坂46ストーリー」(集英社刊)を読んでから聴くのとでは、印象が大きく変わるはずだ。
 
 あるいは「君のため何ができるだろう」の歌詞について。今年6月28日に行われた、渡邉美穂の卒業セレモニーで、2期生全員と上村ひなのが、渡邉美穂のために、富田鈴花のピアノの伴奏で歌った。という5W1Hが付加されたことにより、この曲の歌詞が、今まで以上に強い意味を表現するようになった。
 
 つまりは「その物語を誰が歌うのか=誰がストーリーを語るのか」が重要なのだ(※これは秋元自身が語ったことでもある)。
 
 欅坂46の楽曲の世界観=ストーリーが欅坂メンバー、特にセンターの平手友梨奈の個性と相関関係にあったのも、まさにそのように歌詞が書かれたからだし、それは他の作詞家・ミュージシャンもしていることだろう。ヒップホップなどは特に、リリックから語り部=ラッパー自身を切り離せない。
 
 この点に関して、「じゃあ、やっぱり彼女たちはストーリー化されているんじゃないのか?」という疑問は当然浮かんでくるだろう。
 
 しかしあくまでも、その歌詞に描かれたストーリーは語り部=彼女たち自身が主人公の物語ではない。彼女たちから着想を得て、「彼女たちから生まれた物語」だ。語り部を役者と言い換えるなら、いわゆる「当て書き」をしているのに近い。だからその疑問の答えは「半分イエスで半分ノー」だろう。
 
 日向坂の歌詞の場合、他者が自分たちをもとに書いたストーリーだったとしても、それを自分たちの声で歌う=語ることによって新たな意味を付与する権利(君のため何ができるだろうの例のように)があるし、新たな歌詞がどんなストーリーになるかは、自分たちの行動次第で常に変わっていく。
 

「私たちは自分たちのストーリーを、創りながら進んでるんです」

 

 映画の終盤で佐々木久美がそう語っていたことと、日向坂メンバーたちがいつからか「言霊」という言葉を使うようになったことは、おそらく無関係ではない。
 
 自分の言葉で「これをやりたい」と発信することで、実際に新たな仕事に繋がる。ライブの進行に問題があるなら、改善してほしいと伝えることで、ストレスを減らせる。「ハッピー!」と声に出してみるだけで、なぜかハッピーな気持ちになれる。「待ってるよ」と伝えることで、休養中の仲間が安心して戻ってこられるようになる。
 
 言葉には力があることを、彼女たちは知っているのだ。
 
 加藤史帆は、ファンから自身の愛情表現が「重い」と言われたことに対して、こう反論した。
 

「私は思ってること口に出してるだけなんですよ」

「みんな心に秘めすぎです!」

日向坂46加藤史帆、ファンからの“愛が重い”指摘に反論?「みんな心に秘めすぎです!」 | E-TALENTBANK co.,ltd.

 

 彼女が重いのではない。彼女は「言葉の重み」を知っているのだ。好きだから「好き」と言う、嬉しいから「ありがとう」と伝える。当たり前のようでいて、意外と素直には言えないことを、はっきりと言葉にする、その重要性を。
 
 約2年半に及ぶコロナ禍で、物理的にも心理的にも人々に距離ができてしまった中で、彼女たちは言葉の力を再発見した。なぜ「再」発見なのか? まだ無名の新人だった「ひらがなけやき」時代、彼女たちの武器は「あいさつ」だった。
 
「おはようございます」
「よろしくお願いします」
「ありがとうございました」
 
 シンプルな言葉から伝わる熱に嘘はない。その熱が少しずつ周りの人々に伝わったからこそ、今の日向坂がある。(詳しいことは『3年目のデビュー』をご覧頂きたい)
 
 
 生きた人間である彼女らにとって、他者の語りによって自分の人生が物語=フィクションにされてしまうことは恐ろしい。
 
 だが彼女たちは、自分たちが語る言葉で、自分たちの物語=ドキュメンタリーを創造する。
 
 彼女たち自身が作った物語は、決して彼女たちから奪うことはできない。
 
 なぜならそれが「人生」だから。
 
 エンドロールの後、卒業を控えた渡邉美穂が佐々木久美に伝えた言葉の裏に、どんな思いがあったのか、それは当人たちにしか分からない。
 
 だが、ひとつ確かなことは、彼女たちは言霊を、言葉の力を信じている。
 
 
 シンプルな言葉から伝わる熱に嘘はない。
 
 嘘のない言葉は道を作っていく。
 
 陽だまりが雪を溶かすように。