物語ることについての随筆

主に映画やドラマについて、個人的な思索

本棚の上のトムキャット――「トップガン:マーヴェリック」

※当ブログ記事の無断転載、スクリーンショットSNSや動画サイト・ニュースサイトへの投稿、引用元URLを明記しないコピペや要約、一部を改変したパクリ記事あるいはパクツイなどは固くお断り致します。
 

 

 映画館の入り口に置かれたタミヤのプラモデルを見て、幼い頃に同じものが家にあったのを思い出した。

 
 F-14戦闘機、通称トムキャット。三角形で灰色の機体の先端に、サメのような顔のステッカーが貼られていた。
 
 ものごころついたときには既にそこにあった気がするので、私が欲しがったものではないだろう。少なくとも、あれを作ったのは私ではない。
 
 が、実家のこども部屋の本棚の上に飾られた、埃にまみれたプラモデルとそのサメの顔を思い出して、なんとなく暗い気持ちになってしまった。改めて思い出すと、幼い私は、そのサメの顔が好きではなかった。
 

 

1

 私は映画「トップガン」を観たことがないし、その続編の「マーヴェリック」も、本来は観るつもりはなかった。そもそも、ここ10年近く続いている80〜90年代リバイバルに対して、正直あまり良い印象は抱いていない。それは映画に限らず、懐かしのアニメ風のイラストや、シティポップ、復刻版のエアマックスでさえ、私は少し距離を置きたいと思ってしまう。
 
 名作映画の、いわゆる公式の続編やリメイク版も全く観ないわけではないし、それらの中にも優れた作品があるのは事実だ。しかし、たとえば「マトリックス」は大好きな作品だったのに、「レザレクション」はなんとなくスルーしてしまった。
 
 それに(これもあくまで仮定の話だが)「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がどんなに面白くても、現代の作品の中でそのオマージュを見させられても、別に嬉しくはない。そうした作品が劣っていると言いたいのでなく、ただ「オマージュしたいからオマージュした」ようなものは、私の琴線に触れないのだ。
 
 単純に、私は80〜90年代を青春の記憶として楽しめる世代でもないし、全く未知の財宝として面白がれる世代でもないのだろう。その時代のものは、私にとってはいわば「本棚の上のトムキャット」のようなものなのだ。埃をかぶったサメの顔に対する、幼い私の抱いた嫌悪。そして過ぎ去った時の果てしなさに対する、大人になった私の眩暈。私はプラモデルの箱の匂いを、素直に懐かしいとは喜べない。
 
 だから私は、未だに「ストレンジャー・シングス」を観る気にはなれない。
 

2

前置きが長くなったが、「トップガン:マーヴェリック」は映画としてはとても良かった。もちろん隙や欠点がないとは言わないが、それこそ夏の夜に麦茶を飲みながら「金曜ロードショー」か「日曜洋画劇場」で観るのにちょうどいい、そういう映画だった。
 
「居間のテレビで、家族とともに映画を観る」
「学校に行ったら友だちも同じ映画を見ていて、みんなでその真似をする」
「麦茶、テレビから聞こえる音、セミの声、扇風機、親が飲むビールの泡、枝豆、露に濡れたランチョンマット」
 
 こうした、かつて現実だった具体的なエピソードが、年齢を重ねるごとに抽象度を高めていく。私はときどき、ノスタルジーが怖い。
 
 それはトラウマという意味ではなく、ノスタルジー、あるいは記憶という概念それ自体に伴う性質のことだ。藤子・F・不二雄の短編漫画に「ノスタル爺」という、文字通りノスタルジーに囚われた老人の話があるが、あれを読んだときに感じる恐怖のことだ。あるいは手塚治虫の「雨ふり小僧」のような、童心に付随する妙な痛みと罪悪感。
 
 過去は「過去である」というだけで既に恐ろしい。もはや現在にその実体は無いのに、過去は「存在した」という形で今も存在し続けている。ゾンビが恐ろしいのは、過去が「過去である」状態のまま身体だけが動いているから、つまり実体を伴って「かつて存在していた人」として存在しているからだろう。
 
 遺体=新鮮(fresh)ではない肉(flesh)。
 
 過去に対する恐怖は、転じて未来=未知への恐怖に繋がる。人は未来のことを、過去を基準にして予想するからだ。トラウマ・PTSDは、未来への予測をネガティブな方向に歪曲してしまう。個人的な経験だけでなく、親や先祖、あるいはその土地に住む人々の間で繰り返し語り継がれ、彼らの行動様式にまで影響を与えてしまうネガティブな過去の記憶=トラウマ。それを、人は「呪い」と呼ぶのだろう。
 
 人間の記憶は、特に強い感情を伴う記憶は、それにまつわる物や場所に染み付き、固着する。断捨離を必要とする人がいるのはこのためだ。物に付随する過去の記憶が蘇るとき、それが悪い記憶ならば、記憶のトリガーとなる物を手放した方がいい。断捨離は必要ないという人は、言い換えれば自分の家の中が「ときめく」もので溢れているのだろう。良い思い出もまた、物や場所に染み付く。
 
 物に対する執着、あるいは後悔。記憶を喚起するもの=メディア。
 
「何を見ても何かを思い出す」(ヘミングウェイ
 
失われた時を求めて」(プルースト)のひとかけらのマドレーヌ
 
 あるいは「本棚の上のトムキャット」
 

3

 さて、ようやく本筋に戻るわけだが、「トップガン:マーヴェリック」は過去を受け入れ、呪いを断ち、過去を乗り越える物語だ。
 
 あの懐かしいテーマ曲とともに、サングラス、無地の白いシャツ、ジーンズ、カワサキのバイク、そしてピカピカの戦闘機。あの頃と変わらない姿、あの頃と変わらない笑顔で、トム・クルーズ演じるピート(コードネーム:マーヴェリック)が現れる。まるで約30年前にタイムスリップしたかのように、あるいは過ぎゆく時の中で、彼の時間だけが止まっていたかのように。
 
 昇進を拒み、現役のいちパイロットに留まっていたピートは、上官の命令を無視して最新型の音速ジェット機の試運転を強行した。そして速度がマッハ10を超えたとき、機体が破損して海に墜落してしまう。責任を問われた彼は異動となり、かつての古巣である海軍航空基地「トップガン」の教官に任命された。そこに集まった優秀な若手パイロットの中には、かつての友人であり、作戦中に命を落としたニック(グース)の息子、ブラッドリー(ルースター)もいる。
 
 彼はピートを憎んでいた。なぜなら、ピートはニックを救えなかったことを後悔し、その罪悪感から、彼の海軍学校への志願書の提出を拒否していたのだ。しかしその結果、ピートは彼から4年という、若者には長すぎる時間を、夢を叶える機会を奪ってしまった。ニックの息子を死なせたくないという恐怖と責任感が、彼を傷つけてしまったのだ。
 
 結局、最もピートを責めていたのは彼自身だった。彼はブラッドリーの顔にニックの亡霊を見ていたのかもしれないが、その亡霊の正体は、他でもない自分自身なのだ。彼は過去を水に流し、自分を許し、自らにかけた呪いを解かなければならない。デロリアンならぬトムキャットに乗って、バック・トゥ・ザ・フューチャー=過去から未来に帰らなくてはならないのだ。
 
 浜辺でのフットボールは、この映画で最も胸を打つ場面のひとつだ。傍目には普通の若者たちの戯れにしか見えないが、やがて彼らは「実現不可能(インポッシブル)なミッション」に飛び込み、この中の誰かは死ぬかもしれないのだ。全員で生き残るためには、任務を成功させるしかない。
 
 ではどうすればいいか? もし失敗しても、現実世界にタイムマシンは無い。時間旅行をするにはマッハ10では遅すぎる。
 
 しかし人間は「現在にいながら過去を繰り返す」ことができる。身も蓋もないほど単純な方法で。
 
 そう、練習あるのみ。
 

4

 物語は後半から、3つのレイヤーでループ構造をとる。一つ目は、広い意味でのスポーツものとしての「練習→本番」のループ構造だ。それが野球であれ格闘技であれ、「練習では上手くできなかった、あの大技を成功させられるだろうか」と、期待と不安の入り混じった気持ちで本番を迎えるように、主人公らと映画の観客は「あらかじめ知っていること=過去」を追体験する。
 
 そういう意味では、同じくトム・クルーズ主演の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のような、いわゆる「ループもの」と変わらない。過去に戻って何度もやり直すか、未来の可能性を検証して何度もシュミレーションするかの違いだ。
 
 二つ目のループは「トラウマの再現・再演」だ。ピートはニックの息子ブラッドリーをアシストし、彼の生命を守ることで、ニックを救えなかった自分を許し、トラウマを癒すことができた。過去に戻って悲劇を防ぐことはできなくても、過去に似た場面を経験することで、その意味をポジティブに上書きすることはできるのだ。
 
 かたやブラッドリーは亡き父の相棒であったピートとバディを組むことで、父がピートと過ごした時間を追体験する。父の役割を演じることで、彼はようやく父親とピートの絆の強さを理解し、ピートを許すことができた。彼はこれから空を飛ぶたびに、そこに父の面影を見出すだろう。
 
 そして3つ目は、多くの方が指摘しているとは思うが、ピートたちの作戦が「スター・ウォーズ」のデス・スター破壊作戦の再現であるということだ。世界中の人が、おそらく何度も繰り返し(ループし)て観たであろう名作映画の記憶=過去を忍び込ませ、観客に追体験させている。
 
 一方で、作り手側の視点に立てば「自分もスターウォーズを撮りたい!」という夢を叶えようとしているわけだが、それはかつてジョージ・ルーカスら製作陣が経験したこと=過去を追体験するのと同じだ。たとえば将棋で、過去の名人の棋譜を見ながら一手ずつ駒をならべていくことで、当時の名人の思考の流れや駆け引きの緊張感を「身体で」理解していくことに似ている。
 
 本稿の序盤で私は「オマージュのためのオマージュを観ても嬉しくない」と書いたが、これに関してはオマージュの域を超えて「完コピ」、さらには「本家越え」を目論んでいるかのようだ。なにしろ本作の俳優たちは、本物の戦闘機を自ら運転しているのだから。
 
 本家(とはいえルーカスが離脱した)スター・ウォーズのep.8「最後のジェダイ」では、主人公たち新世代の若者が、かつてのルークやハン・ソロの活躍を再現しようとして失敗する様を描き、「過去に囚われるな。現在の自分のやり方で乗り越えろ」と、メタ的に見れば昨今の80年代リバイバル批判ともとれるテーマを提示した。
 
 かたや「トップガン:マーヴェリック」は、むしろ「現在の自分たちのやり方」でデス・スター破壊作戦を再現することで、スター・ウォーズという「過去」を踏襲しつつ、クオリティ面でそれを乗り越えようとしている。まるで最新型の漫才のスタイルで新しい笑いを追求するか、古典落語を極めて師匠を超えるか、みたいな話だが、そのどちらも間違いではないように、私は「最後のジェダイ」も「マーヴェリック」も間違いだとは思わない。大切なのは「過去を乗り越える」ことだから。
 

5

 ところで、この作品には奇妙な特徴があって、それはピートたちの敵(悪役)が「ならずもの国家(ローグ・ネイション)」とはいわれているが、彼らが何者であるかは一切わからない、つまり「顔と名前を持つ生きた人間」が一人も現れないことだ。敵方で唯一の登場人物である飛行機のパイロットたちは、顔を黒いマスクで覆われ、「ダースベイダー」のような名前を与えられず、言葉も発しない。
 
 政治的な配慮として具体的な国を想定させないためでもあるだろうが、同時に「自分の仲間が殺されるのは嫌だが、敵を殺すのは致し方ない」という、戦争から引き剥がすことのできない矛盾・欺瞞・あるいは罪悪感を、観客には感じさせない、気づかせないようにしている。
 
 もし敵方のパイロットが顔と名前を持つ生きた人間なら、彼を撃ち落としたとき、観客はそこに彼の息子(=もう一人のブラッドリー)の顔を想起せざるを得ない。これを突き詰めると、最終的には「本当の『悪』は敵の国家ではなく『戦争』そのもの。戦争を止めよう」という話になる。
 
 そこをあえてテーマにしないのは、当事者であるアメリカ人はすでに「そんな話は現実でもフィクションでも、もう何度も見た、聞き飽きた」ということかもしれない。イラクから撤退したバイデン政権と、戦争に疲れたアメリカ人。
 
 とにかく「他者=自分の写し身である悪役との戦いを通して、自身が抱える内面的な葛藤を克服する」という、広い意味でのヒーロー映画の基本構造を、この作品では踏襲することが難しい。舞台が現実世界で、実在する戦闘機が登場する以上、現実の戦争を想起せざるを得ないからだ。
 
 だからこそ、本作では敵方から人格を奪い、主人公の真の敵である「自分にかけた呪い=トラウマ」のメタファーとして、顔の無い、名無しの亡霊を出現させたのだろう。戦争を題材にしながら戦争映画であることを避け、個人の内面的な葛藤だけに焦点を当てている。
 
 終盤、ピートとブラッドリーのピンチを救うためにハングマン(=処刑人)が敵方の飛行機を撃ち落としたとて(パイロットが脱出できたのかは失念したが)、相手は人格のない亡霊(というより、もはや人形・舞台装置)なのだから罪悪感も生まれないというわけだ。
 

6

 ここで比較として、現実世界で実際に起きた事件をもとにした、クリント・イーストウッド監督の「15時17分、パリ行き」を紹介したい。この映画は、2015年、オランダはアムステルダムからパリに向かう急行列車で起きた無差別テロ「タリス銃乱射事件」を題材にしているのだが、主人公である3人の若者を演じたのは、実際にその事件に居合わせ、テロ実行犯を取り押さえた若者たち自身だ。
 
 この映画にもまた、トップガンのようなループ構造が存在する。一つは、彼らがそれまでに経験したこと(軍事訓練など)が、テロの鎮圧に活かされるという「練習→本番」のループ。
 
 もう一つは、彼ら3人が現実の人生で実際に経験したこと(過去)を、映画という虚構の中で「再現=再演」するループ。
 
 三つめのループは、リアルタイムでその事件の報道を聞いた人々、その列車に乗っていた人とその家族や友人、パリでその列車の到着を待っていた人、アムステルダムでその列車に乗るかもしれなかった人々が、映画館で「再び事件を目撃する」、つまり観客としての経験のループ。
 
 この作品にはどこか、物語の起源を感じる。遠い昔、村の狩人がマンモスなどの巨大な獲物を捕らえる様子を、彼ら自身とその目撃者が身振り手振りで語り、その話を聞いた村の人々が、自分の子孫、よその村の人間に語り継いでいくような、原初的な風景。
 
 特に一つめの「練習→本番」のループを、まるで彼らが事件に居合わせたことが「運命」であったかのように表現している点に、神話や英雄伝説の起源を感じる。
 
「(登場人物や観客は)あらかじめ何が起きるか知っている」ことは「過去の再現・再演」のループ構造の特徴である。だが一方で「あらかじめ何が起きるかは決まっている。しかし、それは神のみぞ知る」場合、人はそれは「運命」と呼ぶ。
 
 もちろん、権力者が自らの業績に神の存在を結びつけることもあっただろう。それとは別に、人が過去を振り返り、それぞれ無関係に思えたさまざまな出来事に、意味のある繋がりを見出したとき、まるで「全ては運命だったのではないか」と感じることがある。
 
 たとえその瞬間は辛く苦しくても、後に当時を振り返ったとき、その経験さえ意味があったのではないかと思えたとき、まるで人生が「自分自身の意志を超えた、大いなる力によって導かれていた」「未来はあらかじめそうなるように決められていた=運命だった」かのような錯覚を覚える。
 
 人間は運命を感じたときに、そこに神の存在を感じるのかもしれない。(※ここでいう神とは『人智を超えた力そのもの』の意味であり、具体的な人格を持つ偶像ではない)
 
 しかし、そうなると人は、リアルタイムでは神の存在を感じられず、過去の記憶の中に、神の足跡を見出すことしかできないことになる。
 
 だとすれば、古来より人間が物語を欲し、伝説を語り継いできたのは、過去を繰り返し語ることで、そのループ構造の中に神の痕跡、神がいた瞬間を保存し、再現・再演するためかもしれない。語るという行為、あるいは読むという行為による身体的な再現・再演によって、人は疑似的に神と再会しようとしている。
 
 演劇・舞踊が宗教的儀式から始まったのは、録画媒体のない時代のビデオカメラとして、神の痕跡を保存するため。そして、それを上演することで、演者および観客に神の存在を実感させるためだった。それがいまでは、映画がクラウド=雲=天国・天界に保存され、ストリーミング=川のように流れて私たちのタブレット=石版に降りてくるようになった。メタファー上は、まるで神々と直接データのやりとりをしているようだ。
 

7

 リバイバル(revival)
 日本語では「復活・再生・再演」などを意味する。
 
 過去を再現・再演するという行為は、一つには呪いを解く=過去を乗り越えるための行為である。それはまた、過去がすべて運命であったと受け入れ、そこに神の痕跡を見出す行為でもある。そして、繰り返し「物語る」という行為を通して、語り部と聞き手の身体の中で、神は何度も復活・再生する。
 
 昨今の80〜90年代リバイバルもまた、そのような機能を果たしているなら、現代に生きる多くの人々にとっては必要なプロセスなのかもしれない。私個人としては、あまりいい気持ちはしないのだが。
 
 
 ところで、映画館の入り口に置かれたタミヤのプラモデルを見て、幼い頃に同じものが家にあったのを思い出した。
 
 F-14戦闘機、通称トムキャット。
 
 ものごころついたときには既にそこにあった気がするので、私が欲しがったものではないだろう。
 
 少なくとも、あれを作ったのは私ではない。