先日、縁あって奈良に行ってきたので、今回は奈良で出会った鹿について書こうと思う。
「サンドマン」――灰色の夢
この写真は東京国立近代美術館で開催中の、ゲルハルト・リヒター展で筆者が撮影したものだ。(※展示作品は一部を除いて撮影可)
1.サンドマンとは
2.夏の夜の夢
3.モルフェウス
嘘つきは家族のはじまり:「SPY × FAMILY」
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「ちちとはは、なかよし!」
forge(動詞)1:(文書などを)偽造する、捏造する。2:(金属を)鍛造する、鍛える。3:(人などが、関係を)築き上げる。
バズ・ライトイヤーは「バズ・ライトイヤー」の夢を見るか?
先に断っておくと、私は先日公開されたばかりの映画「バズ・ライトイヤー」は観ていない。今回はバズ・ライトイヤーというキャラクターと、彼にまつわるSF的問いかけを題材に「物語ること」について考えてみようという記事である。
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日向坂46のBBシャツが「物語ること」について物語ること。
今週のお題「二軍のTシャツ」
今回はお題に沿って二軍のTシャツにまつわるエピソードをきっかけに、このブログのコンセプトである「物語ること」とはどういうことか、それについて考えたい。
これは、前回の記事に書いたアイドルグループ「日向坂46」のライブTシャツ、もといベースボール・シャツである。厳密にはTシャツではないこと、稼働率を考えれば二軍というよりは「5軍の控え」であることはご容赦頂きたい。
このTシャツが「本棚の上のトムキャット」の如く、私たちに物語ることとは何か。
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まず、この日向坂46のベースボール・シャツは、2020年に「春の全国アリーナツアー」の物販グッズとして発売されたものだ。
2020年の春といえば、新型コロナウイルスの蔓延により、日本各地で音楽ライブや演劇などのイベントが中止を余儀なくされた時期だ。日向坂46もまた、全国ツアーを中止せざるを得ず、代わりに無観客のオンラインライブが開催された。つまり、このベースボール・シャツは「幻のライブツアーのグッズ」という物語を内包していることになる。
日向坂のチームカラーの空色と、その反対色であり太陽=おひさま(日向坂ファンの総称)を象徴する黄色。野球、スクールバス、そしてアイドルの三要素から想起されるのは、ハイスクールのチアリーディング部が主人公のストーリー。
しかし、実際に彼女らがスクールバスに乗り、チアリーダーの衣装で現れたのは、翌(2021)年の3月に開催された「2回目のひな誕祭」でのこと。「乗り遅れたバス」ならぬ、1年越しの「遅れてきたバス」。
ここまでは、このベースボール・シャツが物語る、現実世界での出来事。だが、このシャツはさらに「2020年に全国ツアーが開催されていたら、どんなことが起きただろう」と、私に語りかけてくる。
新型コロナウイルスが流行しなかった、あるいは早期に収束していた世界線で、私たちは何をして、どんなふうに生きていただろう。そう考えたとき、このわずか2年半の間に私たちが失ったものの大きさを思い知らされて、急に涙が溢れてきた。
それは人々の生命や財産だけでなく、これまでは普通にできたことができなくなったせいで失った時間や機会、場所、コミュニケーション、あるいは叶えられるはずだった、誰かの夢や目標。
「可能性としてはあり得たかもしれないが、現実には起きなかったこと=物語」について考えるとき、心が揺さぶられるのは何故だろう。
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ところで、今度はまた別の視点で、全くの空想としてこのシャツについて考えてみよう。
《私は部屋の片付けをしているとき、引き出しの中から見慣れないベースボール・シャツを見つけた。私は、このシャツに記された日向坂46のライブツアーのことを、何ひとつ思い出せない。ネットで調べてみても、そんなライブが行われたという記録がない。
それもそのはず、遠い未来から来た何者かが過去を改変して、そのライブをなかったことにしてしまったのだ! タイム・スクールバスで時間旅行する日向坂46のメンバーは、人々から奪われた記憶を取り戻すことができるのか? そして黒幕の真の目的とは……?》
どうか寛大な心でお許し頂きたい。私は元来、こういうくだらないことを考えるのが好きな人間なのです。
物が語ると書いて「物語」だが、実際にはものごとから物語を読み取っているのは人間の方。このシャツが「語りかけてくる」と、物を擬人化して語らせた=物語にしたのは、他でもない私だった。
前回、「人は見たいもの=理想=idealしか見ない」と書いたが、もちろん私自身も例外ではない。アイドルに興味のなかった私が日向坂のファンになったのは、恐らくは私が潜在的に「見たかったもの」を見せてくれたからだと思う。
それは彼女らの「見た目(見えるもの)」ではなく、「彼女らが歌って踊る姿(見えるもの)を通して語られたもの=物語(見えないもの)」に他ならない。そして私が見たかった物語は、日向坂46という語り部でなければ見ることができなかった。
ただし、彼女たちがアイドルである前に生きた人間である以上は、やはり勝手な理想ばかり押し付けてはいけないし、悲観しすぎてもいけない。いちファンとして、彼女たちの希望と絶望はセットで受け止めてあげたいし、ネガティヴな感情さえも肯定してあげたい、という老婆心を小難しく長々と書いたのが前回の記事である。
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さぁ、ここからが本題だ。「物語ること」とはなんだろうか?
私は、なぜ人が物語を必要とするのか、なぜ人は物語を作りたがるのか、作ってしまうのかに興味がある。そして、人々がそれぞれのやり方で何かを語り、語り継いでいくことを通して、新たに(広い意味での)物語が形作られていく、その過程に興味がある。
人間は、おしゃべりをするのも聞くのも好きな生き物で、特にその場面や情景を想像できるようなエピソード=物語を求める。その物語が事実だろうと、誤解や思い込み(あるいは嘘)であろうと問題ではなく、むしろ「嘘か本当かわからない」くらいのほうが楽しかったりする。
「昨日は嬉しいことがあって……」(なになに?)
「あれが何か知ってる?」(知らない、教えて!)
「あのウワサ、実はこんな裏があって……」(嘘でしょ? 本当に?)
おまじない・ジンクス・占いもまた、広い意味での物語=小さな嘘で、信じられないからこそ信じたくなるし、それが当たるかどうかは、実はそれほど重要でもなかったりする。
たとえば「四つ葉のクローバーを見つけると幸せになれる」というジンクスは、実際にはクローバー自体ではなく、珍しいものを探す時間のわくわくと、見つけたときの喜びと、押し花の栞を作りながらプレゼントする相手を想う時間が、その人を幸せにする。つまりは四つ葉のクローバーを「見つける」という行為こそが重要で、四つ葉のクローバーを集める過程で生まれた物語こそが、押し花の栞の価値を高める。
占いは、その結果が「当たる」かどうかより、それを聞いて何か「思い当たる」フシがあるのか、あるならそれをどうしたいのかを確認して、どう対処すべきかを考える、つまりカウンセリング的な作業の方が大切なのだろう。
占いたい、という欲求はつまり、なにか解決したい問題を抱えているという意味なので、占ってもらうことは「占い師に悩みを語る」行為だ。そして占うことは、その悩みを受けたうえで、星座やタロットカードが物語るものを相手に伝える行為で、それを聞いた人は占いの結果=物語を自分の人生に取り込んでいく。(もちろん、気をつけなければ高いツボを買わされる羽目になるのだが)
「痛いの痛いの飛んでけ〜」というおまじないは、実際に痛みが引いていくことより、泣いているこどもを安心させることに意味がある。安心すれば、その傷が思っていたほど痛くないことに気がつく。だから効果はないはずなのに、ちゃんと効果はある。
「種も仕掛けもございません」が嘘=物語なことは誰だって知っている。知っているにもかかわらず、種と仕掛けを見破れない、それがマジック=魔法だ。そして、人間は勝手な生き物で、ネタバラシされると意外とがっかりする。つまり観客にとっては「本当に魔法は実在するのかも……」と想像する=物語を味わう時間が大事なのだろう。
サンタクロースは実在してもいいが、実は家族や身近な大人だったと知ることも良い経験になる。最終的に、クリスマスの思い出が良いものとしてその子の記憶に残ることが重要で、ならば、むしろサンタクロースは実在しなくて問題ない。その物語があることのほうが大事なのだ。
このように、人間は日常の様々な場面で物語を使い、実生活で活用し、役立てている。物語・フィクションには、現実を書き換える力がある。その力は、良い影響だけでなく、悪い影響ももたらす。
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日常の営みとしてストーリーを語ることと、映画や漫画、小説、演劇、ダンス、アニメなどの創作物における物語の作り方は、おそらくは地続きなのだろうと思う。同時に、観客が創作物・フィクションの物語を理解しようとする過程もまた、日常レベルでの物語の受容と同じ方法・手順で為されている、気がする。
つまり私たちは、現実を理解するのと同じ方法で創作物・フィクションを理解するし、フィクションを見るときと同じやりかたで現実を見ているのではないか。
私たちは自分で思っている以上に、現実と虚構を区別できていない気がする。それが良い・悪いの問題ではなく、そもそも脳の中の同じシステムを使っているから、そうならざるを得ない、という仮説(=フィクション=物語)。
もう一つ肝心なことは、物語を創作する過程と、物語を受け取り理解しようとする過程は、実は脳内で同じ方法・手順を用いているのではないか。という仮説。
たとえば、推理小説の主人公がある事件について推理する(=仮定の物語を作る)とき、読者がその推理を読んで理解しようとしたなら、そのときに脳内で行っている作業は、探偵の語りを読者が語り直しているのと同じではないだろうか。という発想。
私は今回、ベースボール・シャツが物語ること(その物に付随するエピソード)を理解するために、ベースボール・シャツが「語りかけてきた」という物語(擬人化・メタファー)の形に脳内で変換して、このブログで読者の皆様にご説明した。
私たち人間は、他者が語った物語を理解しようとするとき、あるいは誰かから聞いた物語を別の誰かに説明しようとするとき、自分の言葉でそれを語り直す。ときにはメタファーを用いながら。しかし、語り直したことで、物語が微妙に変化していく。なぜなら他者と自分とでは持っている語彙(ボキャブラリー)と物語(知識・経験)が違うから。物語が語り直されるたびに微妙に変化し、そこで生まれた差異によって、新たな意味を発見できるかもしれない。
物語るという行為を実際に行う、語り直すという過程を経ることで、人は少しずつ見えるものを増やし、新しい「ものの見方(捉え方)」、視点を獲得していくのではないか。という仮説=物語。
私はこういうことに興味がある。
というわけで私は、このブログでは「物語」と「物語る」ことについて考えるために、物語を参照しながら物語ることにした。不定期更新なので、お暇なときにふと訪ねてくれたらこれ幸い。
《おしまい》
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語ること、言葉にすること、物語ること、生きること――日向坂46 ドキュメンタリー「希望と絶望 その涙を誰も知らない」
「物語にしてほしくない」「ストーリーにされたくない」
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「私たちは生きた人間だから」「(辛いこともあったけど仲間と共に乗り越えた、という)ストーリーとして消化(昇華?)されたくない」
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「どーせ、うちらは『か弱い女』だよ!」
革命はテレビには映らない――ギル・スコット・ヘロン(Revolution will not be televised. by Gil scott-heron)
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「私たちは自分たちのストーリーを、創りながら進んでるんです」
「私は思ってること口に出してるだけなんですよ」
「みんな心に秘めすぎです!」
日向坂46加藤史帆、ファンからの“愛が重い”指摘に反論?「みんな心に秘めすぎです!」 | E-TALENTBANK co.,ltd.
本棚の上のトムキャット――「トップガン:マーヴェリック」
映画館の入り口に置かれたタミヤのプラモデルを見て、幼い頃に同じものが家にあったのを思い出した。