物語ることについての随筆

主に映画やドラマについて、個人的な思索

鹿と鬼が踊るMidnight

先日、縁あって奈良に行ってきたので、今回は奈良で出会った鹿について書こうと思う。

鹿が、というより、「鹿がいる森」が物語ること、物語が生まれる過程について。
 

 

1.
10月…「天高く馬肥ゆる秋」とはいうが、そういえば馬は見なかった。
 

 
奈良は空が広い。東京のような高層ビルが無いため、かえって興福寺五重塔の高さが際立つ。クレーンの無い時代に、よくもまぁこんなデカいものを建てたものだと感心していると、その手前の松の木の下に、角を切られた年寄りの鹿がいるのが目に入った。ちなみにホンシュウジカのオスの平均寿命は10〜12歳らしいが、まるで何世紀も前からそこに居たかのような顔をしていた。
 

 
それから東金堂と宝物館で阿修羅像などの仏像をたっぷり眺めてから外に出ると、鹿せんべいを手にしたちびっ子らが数匹の鹿に囲まれて怯えていた。そして宝物館のすぐ裏の公園に入れば、あちこち鹿だらけ、足下には鹿のフンだらけである。
 

 
観光地だから人間に慣れているとはいえ、鹿の距離感は犬ほど近くはない。かといって、猫のように警戒して睨んでくることもない。ただ、こちらがその細長い顔を眺めると、鹿は真正面からじっと見つめてくる。何を感じているのか、あるいは何の感情も抱いていないのか、こちらをただじっと見つめ返すのだ。
 
その落ち着きぶりは馬や牛に近いが、頭の高さが人間より低く小柄なために、近づいてきても圧迫感はない。かといってレトリバーなどの大型犬とも違うし、なんなら細身のボルゾイの方がもっと怖い気がする。
 

 
かたや仔鹿は、トイプードルやチワワのように頭が小さく、瞳はつぶらで、折れてしまいそうなほど華奢な脚でトコトコと駆けていく。その愛らしさを見れば、「バンビ」のようなキャラクターが人気なのもうなずける。
 
鹿が擬人化されるときには高貴な人物、あるいは美男・美女のイメージを付加されやすいのも、細身ながら筋肉質で、プロポーションもよく、顔つきに品の良さを感じるからだろう。ちなみに、私の行った頃には角切りが終わったばかりらしく、日中に見た鹿たちには角がなかったが、牡鹿の立派な角は王冠のようでもある。
 
鹿が貴族や王家などの権力者のイメージと関連づけられるのは、彼らが娯楽としての狩りの対象だからでもある。鹿の頭の剥製を部屋に飾ったり、ジビエ料理として親しまれていたり。
 
もっと時代を遡れば、角や毛皮は部族の英雄たちの力量を誇示する戦利品であり、あるいはシャーマンたちの呪術の道具、儀式的な踊りに使う仮面の装飾品になった。鹿の角には、古今東西の人々を魅了する美しさが備わっているらしい。
 
鹿に限らず、狩りの対象になる強い獣(熊・狼・虎など)は神格化され、その毛皮はもちろん、角、爪、牙などの攻撃に使う=力が宿る部位は特に高い価値を付加される。
 
興福寺で見た十二神将八部衆の衣装に動物のモチーフが使われているように、その動物にまつわるイメージが物語る能力(空を飛ぶ、俊足、怪力など)を、それを身につける人物に付加する試みは、古今東西で見られることだろう。迦楼羅(かるら)に至っては鳥人間、笑い飯風に言えば鳥人(とりじん)だ。
 
2.
ところで、おそらくは中学の修学旅行ぶりに奈良に来たわけだが、私はこのときまで鹿の鳴き声がどんなだったか、すっかり忘れていた。というより人生を通じて、鹿の鳴き声を文字にするとどう表現されるのか、まったく記憶がないことに気づいた。普段それほど馴染みのない羊でさえ「メエメエ」と鳴くことを知っているのに。
 
では実際はどうかというと、鹿たちはドアが軋む音のように「キュイーッ」と鳴いていた。それはトンビのようでもあり、赤ん坊のようでもあった。つまり、そこそこ離れた場所にいる人間の耳にもはっきりと聞こえるような、高く、長い音で鹿は鳴く。
 
その日、私たちは閉館ギリギリに東大寺を出ると、せっかくだから春日大社の参道を行けるところまで歩いてみようということになった。その時点でだいぶ日が傾いていたので、参道の林の中はかなり暗い。
 
するとあの、鹿の鳴き声が聞こえてくる。赤ん坊のようでもあるし、女性の悲鳴にも思えてきて、なんだか気味が悪くなった。ふと振り向けば、また別の鹿が自分のすぐ近くに立っていたりするので落ち着かない。
 
せめて石灯籠に明かりはつかないものかと眺めていると、その後ろに動く影が見え、はっと息を飲む。と、それはただの野良猫であった。
 
「なんだ、猫か」と、フィクションでしか聞いたことがない台詞が口から溢れた。時計を持った白ウサギでなくてよかった。しかし思い返せば、奈良に来てから猫を見たのはあれが初めてだった気もする。
 
春日大社の門が閉まっているのを確認して、もと来た道を戻る頃には、石畳の参道はすっかり真っ暗だった。暗闇のあちこちから鹿の鳴き声があがり、さっきよりも多く鹿のシルエットが浮かぶ。あるものは目の前をさっと横切り、あるものはじっとこちらを見つめてくる。
 
そのとき、私は奈良に来て、初めて角のある牡鹿と出会った。しかし姿は見えず、ただ立派な二本の角の影だけがあるのみ。そして顔こそ見えないが、彼に見られているような気がした。
 
二本の角、暗闇、視線。
 
3.
鹿の角は王冠のようでもあるが、角を持つのは鬼であり悪魔である。いわゆるサタンは鹿ではなく山羊だし、日本的な鬼もだいたい牛のような角だが、鹿の角の複雑な形の方がよっぽど悪魔的な魅力を感じる。
 
それに、意外と忘れがちだが、鹿をはじめとする四足歩行の動物の多くは、後ろ脚だけで立つこともできる。二足歩行を人間や猿だけの特権と思いこんでいると、角を生やした動物が二本の脚で立ったときのシルエットを見たら、本当に悪魔が現れたと勘違いしてしまうかもしれない。
 
私のこの鹿との出会いの話から、「もののけ姫」に出てくる「シシ神」を連想した方もいるだろう。大きな角を生やし、人間のような顔をした鹿が、主人公アシタカをじっと見つめる瞬間。かたや中世イギリスでは、アーサー王は森の中で「唸る獣」と目が合う。こちらは角ではなく、脚が鹿らしい。頭は蛇で、胴体がヒョウ、尻がライオンなのだとか。
 
余談だが、私は東京の自宅近くでこれに似た経験をしたことがある。夜中に公園のフェンスの上をゆっくり歩いていたハクビシンと目が合ったのだが、一瞬、私に向かってニタっと笑ったように見えた。他にはタヌキに出会ったことがあるが、彼らはむしろ困ったような顔でスタコラと逃げていった。
 
犬や猫を飼ったことのある人は特に身に覚えがあると思うのだが、動物も人間と目を合わせて、意思疎通をはかろうとする時がある。あるいは両者が目を合わせた瞬間に、回路が繋がり交流しようとする感覚が生まれる。
 
これは身体感覚の話であって、比喩ではない。
 
人間も動物である以上、他の生物の視線に敏感になのだろう。私たちが鹿を見つめたら向こうも見つめ返してくるように、たとえ暗闇の中であろうと、視線を向けられているという感覚は、動物である私たちには少なからずストレスになるはずだ。
 
4.
現代のようにLEDがビカビカと光っていなかった時代には、夜はもっと暗かったはずだし、もっと様々な種類の動物に出くわしていた可能性がある。猿、イノシシ、野良犬、梟やミミズク、蛙やトカゲ、イタチや狐、さらには蜘蛛などの虫も。松明や提灯の灯りを持っていないなら、満月がどれほど眩しく見えたことか。
 
同時に考慮すべきは、インターネットはおろか、印刷・出版の技術がなく、そもそも文字の読み書きを学ぶことが特権だった時代のことだ。「どうぶつ図鑑」を読んだことのない人々は、自分の目で実際に見たことのない動物のことは、人づてに「どうやらなんとかという、角のある生き物がいるらしい」と聞くことしかできない。
 
真っ暗闇の中で、名前も知らない、見たこともない動物のシルエットと鳴き声だけを聞いて、恐怖せずにいられるだろうか? 仮に何種類かは知っていたって、熊や狼なら死を覚悟するだろうに。
 
映画「THE BATMAN ザ・バットマン」の序盤、覆面をした強盗がゴッサムの街の暗がりを見つめて、何かの気配に立ちすくむときの恐怖。コウモリは姿が見せないからこそ、人は洞窟の奥から響く羽ばたきの音と金切り声に耳を澄ませ、闇をじっと見つめてしまう。
 
5.
人は目から得られる情報が少ないときには、その他の感覚、特に耳に頼ろうとする。
暗闇に響く鹿たちの鳴き声は、まさに「バッコスの信女」のようだった。鹿の毛皮を羽織り、葡萄酒の神ディオニュソスを讃えて踊り狂う女(マイナス)たちの叫び。しかし逆に言えば、森の中で悪魔や魔女の高笑いを聞いたという人は、実際には鹿とすれ違っただけかもしれない。
 
レヴィ=ストロースの「仮面の道」によれば、アメリカ大陸の古い民間伝承には「泣く赤ん坊」あるいは「赤ん坊のように泣く精霊」が登場する話が複数あるらしい。メキシコのある言い伝えでは、どこからともなく赤ちゃんの鳴き声が聞こえてくるが、可哀想に思ってその子を探しに行った者は、川に引きずり込まれて溺れ死んでしまう。
 
実は、その声の主はカワウソなのだそうだ。近年はSNSでも人気のカワウソだが、メキシコの大草原で、真夜中にその声を聞いてしまったら、きっと私たちは騙されてしまうだろう。
 
ブレーメンの音楽隊」も、子ども向けの話だから笑っていられるが、夜の闇にロバと犬と猫と鶏が積み重なった大きな影を見たら、そして彼らが同時に叫んだら、アーサー王が出会った「唸る獣」には及ばずとも、かなり恐ろしいはずだ。
 
「なんだ、猫か」で済めばいいが、猫も人を騙す生き物だ。暗闇で「ニャア」と聞こえたら、若い女性や子どもと勘違いしてしまうかもしれない。むしろ逆に、猫ではなくキャットウーマンの可能性もある。
 
6.
つまり動物の擬人化の反対、人間を動物にたとえる行為。
 
「人間狩り −狩猟権力の歴史と哲学−」(著グレゴール・シャマユー)によれば、かつてスコットランドでは、国から追放された犯罪者は法律では守られない存在=動物扱いされたらしい。そして帰る家を失い、森に住むようになった彼らは「Vargr(狼)」と呼ばれ、狩りの対象となり、猟犬に殺されたという。
 
ならば森に逃げた犯罪者が集まって盗賊になり、捕まえた動物の毛皮を羽織っていてもおかしくないだろう。その頭領は鹿の角を、冠のように頭に巻きつけていたかもしれない。鬼のパンツはカルバンクラインではなく、虎の毛皮だ。
 
結局のところ、大昔の人々が森で出会った恐ろしい存在が、動物だったのか人間だったのか、本当に悪魔や亡霊がいたのか、現代の我々にはそれを知る方法はない。というより、当時の人々も理解できなかったからこそ「こんな恐ろしいことがあった」と仲間に打ち明け、その噂はあちこちの村に伝わり、民話となり伝説となり、今も語り継がれているのだろう。
 
狼男は満月の夜に現れる。先日の皆既月食のように、赤い月が昇る夜には、大昔の人々は身を震わせて怯えていたことだろう。あるいは葡萄酒に酔い、鹿の毛皮をまとった女たちと踊っていたかもしれない。
 
森の中の乱痴気騒ぎといえば、「サンドマン」の記事で紹介した「夏の夜の夢」には、頭を馬に変えられた男が登場する。だが、馬の頭をかぶってヒヒーンと叫ぶ酔っぱらいなら、ハロウィンの渋谷にもいたはずだ。彼も街のどこかで、美しい鹿と目が合ったかもしれない。
 
天高く馬肥ゆる秋、朝が来るまで馬鹿騒ぎ。
 
お後がよろしいようで。
 

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「サンドマン」――灰色の夢

この写真は東京国立近代美術館で開催中の、ゲルハルト・リヒター展で筆者が撮影したものだ。(※展示作品は一部を除いて撮影可)

 
「グレイ」と名づけられたこの作品は「無」を表現しているらしいが、「無」が「そこにある」と思うと、妙に心が落ち着く。
 
ところで、私は灰色の夢しか見たことがない。リヒターの抽象画のように色彩に溢れた夢を見る人もいるらしいが、私の見る夢はいつも、砂のような灰色だ。
 
夢はあらゆる物語の源泉になるけれど、現実がなければ夢を見ることはできない。しかし夢=物語のせいで、現実での生き方が変わってしまうこともある。ならば、夢=物語と現実は、実質的に地続きではないだろうか。
 
今回とりあげるNetflixオリジナルドラマ「サンドマン」は、夢が現実を、現実が夢を変えていく物語。
 
 

1.サンドマンとは

本作は「コララインとボタンの魔女」「アメリカン・ゴッズ」「パーティーで女の子に話しかけるには」などの映画・ドラマの原作者として知られるファンタジー小説家、ニール・ゲイマンが手掛けた大人向け漫画の実写化。
 
夢の世界を統べる王「ドリーム」ことモルフェウスは現実世界に召喚され、100年もの間、魔術師の屋敷の地下に幽閉されてしまった。彼は人間に奪われ散逸した宝石、砂の入った袋、兜(ヘルム)を取り戻し、荒廃した夢の世界を再建させ、さらに現実世界で悪事を働く「悪夢」たちを捕らえなければならない。
 
サンドマン」の名は西欧の民話に出てくる眠りの妖精(人のまぶたに砂をかけて眠らせる)に由来し、モルフェウスも魔力を持った砂を使う。
 
元々「サンドマン」というキャラクターは、スーパーマンバットマンで有名なコミック出版社DCが権利を持つヒーローで、ゲイマンの「サンドマン」はたしか3代目だったはず。(参考:サンドマン (ヴァーティゴ) - Wikipedia)
初代はガスマスクをつけた人間で、2代目は「キャプテン・アメリカ」「ハルク」などで有名なジャック・カービーが手掛けた、夢の中で戦うスーパーヒーローだ。
ちなみにカービー版のサンドマンはゲイマン版のコミックにも登場し、今回のドラマでも8話目に登場する。私は原作のこのエピソードが大好きだった(そして原作のほうがもっと怖い)。
 
ドラマ版は多少の改変はあるものの(かつてキアヌ・リーヴスが演じた『コンスタンティン』が女性になっていたり)、おおむね原作通りにしている。惜しむらくは、韻を踏む悪魔「エトリガン・ザ・デーモン」の出番がカットされてしまったこと。彼のフリースタイル・ラップが聴きたかった。
 
私はずいぶん前に原作コミックの邦訳版を古本で買って読み、数年前に手放してしまったのだが、復刊の予定はないのだろうか。なぜかAmazon Audible でオーディオドラマの日本語版が配信されているのだが、漫画なのだから絵も見たいじゃあないか普通は。
前回取り上げた「SPY × FAMILY」のように、日本の漫画も海外漫画から様々な影響を受けているというのに、「サンドマン」のような名作でさえ日本ではすぐに絶版になってしまうから、一度手放してしまうと再び入手するのが大変で困る。
 
 
ドラマ版の見どころを先に挙げておくと、地獄の王ルシファーと言葉(概念)で戦う4話目。
名優デヴィッド・シューリス演じる男が、ダイナーに集まった男女を絶望の縁に陥れる密室劇の5話目。
モルフェウスの姉「デス(死)」とともに死者を迎えに行き、デスの気まぐれで不老不死になった男と再会する、感動の6話目。
そして前述の2代目サンドマンが登場する8話目。
 
特にシリーズの後半からはスリラーや探偵ものの要素も加わり、ゲイマンらしい、奇妙で残酷なのにどこか可笑しい物語になる。だんだんと面白さが加速していくので、ぜひ最後までご覧あれ。
 
ゲイマンの作品にもっと触れたい方には、角川文庫の「壊れやすいもの」という短編集をおすすめしたい。当ブログ的には「物語に関する物語」もいくつか収録されている点でもおすすめである。
 
 

2.夏の夜の夢

原作コミックで私が特に気に入っていたのは、ドラマ版の6話でもちょっとだけ出番のあるシェイクスピアのエピソードだ。モルフェウスはまだ有名になる前のシェイクスピアと取引きをし、彼を成功させる代わりに、妖精の王のために芝居を書かせる。お察しの通り、それが「夏の夜の夢」だ。
 
モルフェウスとの約束を果たしたシェイクスピアは、妖精の王と妃、そしてパックたち妖精の前で、彼らを登場人物にした喜劇「夏の夜の夢」を上演する。人間たちが妖精の役を演じる様を見て、妖精たちがああだこうだとツッコミを入れる。
「夏の夜の夢」には劇中劇があって、職工たちが下手な演技で悲劇を演じる様を観て、貴族たちがああだこうだと論じているのだが、それと同じことを妖精たちがしているわけだ。
 
「夏の夜の夢」について簡単に説明すると、夏至の夜、妖精の王オーベロンと妃のティターニアは、ある人間の赤ん坊をどちらの小姓として側に置くかで揉めていた。
「自分の友人の子だから」と頑ななティターニアから赤ん坊を奪うべく、オーベロンは悪戯好きの妖精パックに命じて、眠っているティターニアのまぶたに惚れ薬を垂らすよう命じた。この薬を塗られた者は、目を覚ましたときに最初に見た人物に恋してしまうのだ。
目を覚ましたティターニアは、芝居の稽古のために夜の森に集まった職工の一人に恋に落ちる。しかもその職工は、パックの悪戯で頭がロバになっていた。
 
妖精の妃とロバの恋。夢から覚めても、また夢の中のような現実。
 
これと同時進行で、親が決めた結婚を拒否して駆け落ちを決めたハーミアと恋人ライサンダー、ハーミアを追いかける婚約者ディミートリアスと、彼に恋するも拒絶された娘ヘレナが真夜中の森に迷い込んでくる。
彼らの言い争いを見たオーベロンはパックに命じて、惚れ薬を使ってディミートリアスがヘレナと両想いになるよう仕向けるが、パックの間違いのせいで、ライサンダーとディミートリアスの両者がヘレナに恋してしまう。二人がヘレナを巡って争う中、恋人を奪われたハーミアはヘレナを激しく叱責するが、ヘレナは自分が皆から馬鹿にされていると思い込んで怒りだす。
 
夢から覚めたら、まるで悪夢のような現実。
 
しかし間違いに気づいたオーベロンのはからいで、彼らは再び眠りにつき、夜が明けるとライサンダーとハーミアは元通りの恋仲に、ディミートリアスはヘレナと両想いになった。全ては夏の夜の夢だった、ということにしておこう。
 
恋は人を「夢中」にさせる。片想いや嫉妬は「悪夢」のように人を苦しめる。恋は起きながら見る夢だ。恋=夢が成就すれば、人生の物語はこれまでとはまるで違ったものになるだろう。
 
 
サンドマン」の話に戻ると、このエピソードでは、シェイクスピアの一座の上演中に、彼の息子が妖精の世界に旅立ってしまう。彼は自分の作品が後世に語り継がれるようにと願い、モルフェウスがその願い=夢を叶えると、その代償として息子を失った。彼が「産みの苦しみ」を経験し、息子のように愛した物語が現実世界で語り継がれる代わりに、実の息子は夢=物語の世界の住人となったのだ。
 
「夢を叶える」とは、つまり、夢を現実にすること。夢=物語が現実との境界を失い、両者が溶けて混ざりあう。
 
シェイクスピアの現実=人生は自分の書いた物語と重なりあい、彼自身もまた物語の登場人物となって、様々なフィクションに出演するようになった。死から数世紀が過ぎてしまえば、かつて実在した人物も、いまを生きている人間にとっては妖精とほとんど変わらない。
 

3.モルフェウス

夢をテーマにした物語は多い。映画では黒澤明の「夢」や、クリストファー・ノーラン「インセプション」今敏「パプリカ」(原作は筒井康隆)など。
インセプション」のインスパイア元である「マトリックス」も仮想現実=夢が舞台だ。自分は夢を見ているんじゃないかと疑う主人公ネオは、白ウサギを追って鏡の中に入り(不思議の国のアリス、および鏡の国のアリス)、真っ白な部屋でモーフィアス(Morpheusモルフェウスギリシャ神話の夢の神モルぺウス)と出会う。
 
ギリシャ語のmorphe「形づくるもの」を意味し、英語では「変形する」の意味で使われている。「モーフィング」といえば、アニメやCGなどで物体が別のものに変化する様を表現する手法だ。似た言葉に「メタモルフォーゼ(metamorphose)」がある。夢は形を変え、変化し続ける性質を持つ。
 
ちなみにモルフェウスは鎮痛剤の「モルヒネ」の語源でもある。死を目前にした兵士が多量のモルヒネを打たれ、痛みから解放され、まどろむ瞬間の恍惚。デスは死者を笑顔で迎える。
 
人は夢の世界のようなファンタジー作品を好むが、不思議なもので、人はファンタジーにもリアリティ(現実感)を求める。例えば「ダンジョン飯」のように、魔法の世界の食事は現実世界のように作られる方が面白い。ハリーポッターはロンドン駅から旅立つ。ドラえもんのび太は、どこでもドアか机の引き出しを開けて異世界に行くし、彼らの使う未来の道具は現実世界の道具が元になっている。偶然だとしても、のび太が昼寝好きであることも興味深い。
 
とにかく、人は夢と現実が地続きであること、夢と現実の境界があやふやになることを好む。熟睡した方が疲れはとれるが、眠りに落ちる直前のふわふわとした状態が一番心地良い。
 
そして、夢を見ているときのいわゆる「レム睡眠」とは、脳の一部が覚醒している状態を指す。つまり、夢は「寝ながら起きている」ときに見るものなのだ。いや、それとも「起きながら寝ている」ときに見るものだろうか。
 
いずれにせよ、夢は現実が無ければ生まれないし、人は夢を見ることで現実を生きる力を得る。そして死という長い眠りについたとき、人は誰かが書いた夢=物語の中で永遠に語り継がれる。つまり死後の永遠の世界=天国とは、現実世界であなたと出会った、あなたを見ていた誰かの中にある物語のことだろう。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
夢の中でお誕生日パーティーをしよう。
 
もちろん、お友達も連れて。
 
温かい紅茶と、シナモンの薫るケーキが待っている。
 
もしプレゼントをくれるなら、
 
君をめっちゃくちゃにしてあげよう。
 
どちらが現実だったかわからなくなるくらい。
 
これが僕たち二人の、どちらの夢だったか、
もはや忘れてしまうくらい。
 
夢から覚めたなら、僕たちはもう元通りではいられない。
 
物語は書き変えられた。
 
 
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嘘つきは家族のはじまり:「SPY × FAMILY」

をつくのは楽しい。
 
嘘をつくのは良くないけれど、嘘をつくのはとても楽しい。
 
嘘をつくと、それを嘘と知らない人との間に「その嘘が本当であるかの様な世界」=物語が生まれる。
 
現実世界の中に発生したもう一つの世界線で、自分だけがそれを嘘と知りながら、知らないふりをして役を演じ、同時に観客となって物語を楽しむ。その優越感。
 
秘密を持つのも楽しい。ごく少数の誰かと共有している秘密なら、もっと楽しい。
 
おそらくは、そこに「他の人は誰も知らない、私たちだけが知っている物語」が生まれるからだろう。
 
嘘や秘密を他人にバレないようにすることは、とても楽しい。そして不思議なことに、バレそうでバレないときが一番楽しい。いつバレてしまうのかとヒヤヒヤする時間が一番楽しい。
 
だから「スパイもの」は基本的に楽しい。
 

 

少年ジャンプを卒業して久しいが、ジャンプ+で連載中の「SPY × FAMILY」(作:遠藤達哉)のアニメはとても良かった。以下に簡単な説明を記すが、まだアニメ版しか見れていないので、細かい部分で間違いがあればご容赦いただきたい。
 
西国(ウェスタリス)のスパイであるロイド・フォージャー(コードネーム:黄昏)の新たな任務は、政治的に対立する敵である東国(オスタニア)の独裁者に近づくために、独裁者の息子が通う私立学校に子供を通わせることだった。一人身であるロイドは、孤児であるアーニャを娘に、たまたま出会ったヨルを妻として迎え、かくして彼らはフォージャー家となった。
 
ロイドはある部分ではアーニャとヨルに秘密を共有しつつ、ある部分では嘘をついて、二人に秘密(自分がスパイであること)を隠している。つまりロイドは、家族という嘘=物語を演じつつ、任務を無事に遂行させねばならないのだ。
 
しかし、秘密を抱えているのは彼だけではない。
 
アーニャは謎の組織の研究所で生まれた。産みの親と引き剥がされ、人体実験を受けていたが、脱走して孤児となった。しかし彼女は「人の心を読む(=嘘を見抜く)」能力を持って生まれたために、大人たちに不気味がられ、里親を転々としてはそのたびに孤児院に突き返されていた。アーニャは自身の能力を使ってロイドの役に立ちたいが、能力=秘密がバレて、再び孤独になることを恐れて嘘をつく。
 
ヨルは普段はおっとりとした性格だが、実は東国政府の暗殺者「いばら姫」という裏の顔を持つ。心配性(シスコン)の弟を安心させるべく、ロイドとの偽装結婚を決意したのだが、その正体を知るものは誰であろうと生かしてはおけない。
 
ロイド(西国のスパイ)とヨル(東国の暗殺者)。敵対する者同士の、典型的な「ロミオとジュリエット」状態。東から先に夜になり、西の空に太陽が沈むとき、いばら姫=眠れる森の美女に口づけし、100年の眠りから覚ますのは「誰そ彼(彼は誰?)」
 
お互いに相手の秘密は知らない。二人の秘密を知るのはアーニャのみ。
 
SPY × FAMILY」は文字通り、スパイの物語と家族の物語の掛け算で出来ている。ロイドはスパイの任務を通して「家族とは何か」を客観的に分析し、演じる。同時に、アーニャとヨルと生活をともにするうちに、徐々に信頼を深め、芽生えてきた愛情に戸惑いながら、少しずつ本当の家族に近づいていく。
 

冒頭に書いたように、嘘をつくことは楽しいし、秘密を隠すことも楽しい。嘘も秘密も物語であり、つまりスパイは役を演じながら物語を作っている。スパイ活動は即興芝居だ。
 
スパイに騙される側は、もちろんそれが嘘だとは知らないわけだが、私たち観客(視聴者)は、ロイドたちの嘘と秘密を知っている。観客は彼らと、いわば共犯関係にある。しかし同時に、観客は彼らが知らないことまで知っている。言い換えれば、私たちは「彼はそれを知らない」ということを知っていて、その上で彼らがどんな行動に出るかをこっそり監視(=spy)するのだ。
 
一方で、彼らもまた観客の知らないこと=秘密=物語を知っていて、それを隠している。私たち観客はその秘密を知ったときに「騙された!」とショックを受けながら、笑顔で彼らに喝采を送るのだ、「お見事!」と。
 
スパイは嘘をつき、秘密を隠す。物語をつくり、役を演じる。そして、敵方にスパイの嘘がバレそうになるときに、一気に高まるスリル。これこそがサスペンスの醍醐味。
 
サスペンス(suspence)suspendと同じく「吊るされた」状態を表す。高いところで宙ぶらりんのまま、ここから落ちてしまうのか、助けが来て「ほっ」とひといきつけるのか、その緊張感が維持された状態。
 
サスペンダーで吊るされたズボンは、片方の留め具が壊れて、今にもズボンが落ちそうなときがいちばん面白い。観客はズボンが落ちてしまったときに起きる事件=物語を予想して、それが実現するのかどうかをハラハラしながら見守る。
 
連続ドラマが視聴者の興味を持続させるために、番組の終盤で事件を起こし、「次回へ続く!」と結論を先延ばしすることをクリフ・ハンガーと言ったりするが、これも崖(cliff)に掴まっている(hanger)様を表す。主人公が崖に落ちるかどうかを知るために、観客もまた崖っぷちで一週間待たなければならない。
 

吊り橋効果:吊り橋(suspension bridge)の上を歩く二人が、橋が揺れるときに感じる緊張や胸の高鳴りを、恋心のためだと誤解すること。
 
スパイものとラブコメは、物語の構造的にはよく似ている。自分の気持ちを隠しながら(=嘘をつきながら)、相手の身振りや言葉遣いに表れる(=物語る)気持ちを読み取り、告白(=秘密を打ち明ける)のチャンスを狙っている。
 
SPY × FAMILY」のアニメ版の8・9話では、一応はスパイものとしてのストーリーが進行しながら、実質ラブコメ回であった。
 
ヨルの弟であるユーリは、東国の国家保安局の職員であり、つまりは「黄昏」を捕まえる立場にある。しかしそれ以上に、ユーリは姉を溺愛していた。ロイドが本当に姉にふさわしい男なのか見定めるため、彼はフォージャー家を訪れる。ロイドとヨルは、自分たちが偽装結婚したことを彼に悟られないよう、仲睦まじい夫婦を演じなければならない。しかし、酒癖の悪いユーリが「本当の夫婦だというのなら証明してみせろ」と、二人にキスするよう命じる。ここでの3者の態度は以下の通り。
 
ロイド:任務のためならキスくらい容易いが、無理やりするのは気が引ける。
ヨル:「愛している」と言われただけで、指が触れただけで動揺するぐらい初心。
ユーリ:ロイドの嘘は見破りたい、しかし姉にはキスしてほしくない。
 
結局キスは未遂に終わったのだが、この場面では、二人の嘘がバレるかもしれないというスリルと、キスをすることのドキドキが混同されているため、吊り橋効果が発生している。このために、ロイドとヨルだけでなく、彼らと共犯関係にある観客(視聴者)までもがキュンキュンしてしまうのだ。
 
嘘はバレるかバレないかのギリギリのスリルが一番面白いし、キスをした、しなかったというショック以上に、キスをするかしないかで吊られている状態=サスペンスこそが人々の心を揺さぶる。いばら姫との口づけへの道のりは、長くて困難な方がよいし、ロミオとジュリエットの関係は、マキューシオとティボルトのいざこざに邪魔された方が盛り上がる。
 
 
SPY × FAMILY」にはこの他に、東国の独裁者の息子ダミアンが、アーニャがよく自分のことを見てくる(=その行為が物語るもの)ために、自分はアーニャに好かれているという思い込み(=物語)を抱くという展開がある。
彼は「まさか、一番ありえないと思っていたアイツにオレ様が恋するなんて」と、自分の気持ちを素直に認めようとせず、アーニャに対してぶっきらぼうな態度をとってしまう。そしてアーニャの方は、超能力でそのことに気づいている。この二人の関係がどうなるかは、きっと長いこと吊るされることだろう。
 

さて、この「キスする・しない」の茶番劇の後、ロイドはヨルが弟の差し金でスパイをしているのではないかと疑い、小芝居(=物語)を打つが、ヨルがロイドを信頼していることは「嘘ではない」と分かり、彼は罪悪感と同時に喜びを感じた。
 
そして、今朝はなんとなくヨルとロイドの間に距離を感じていたアーニャは、学校から帰ってくると、ロイドがヨルに対する疑いを捨てたことを知る。アーニャのような超能力者でなくとも、子供は両親の空気を、つまり、両親の振る舞いが物語るものを敏感に察するだろう。
 

「ちちとはは、なかよし!」

 

 彼らをつなぐのは家族という、三人だけの秘密=物語
 
彼らは共通の嘘を演じ、それが他人にバレないようにしているうちに、徐々に嘘が嘘でなくなってきて、いつのまにか嘘の中に真実が生まれていた。たとえそれが吊り橋効果でも、共に困難を乗り越えるうちに、フォージャー家には愛が芽生えていた。
 
「現実の中でその役を演じる=自分の身体で物語る」という行為を通して、彼らは物語と一体となり、自分たちで物語を創っていく。
 
夜と黄昏の間のように、嘘が作った世界線の境界があやふやになって、現実と混ざりあっていく。
 
家族は「ある(存在する)」ものではなく「なる(行為によって創り出す)」もの。
 
たとえ互いに血は繋がっていなくとも、「愛する」ことで、愛を具体的な行為によって示す=物語ることで、偽りの家族は本当の家族になれるのだ。
 
forge(動詞)
    1:(文書などを)偽造する、捏造する。
    2:(金属を)鍛造する、鍛える。
    3:(人などが、関係を)築き上げる。
 
 

 

フォージャー家の平和を守ることが世界の平和を守ることに繋がるなら、ロイドはその任務を成功させなければならない。そのためなら家族で休日に水族館に行くことも、遊園地を貸し切って遊ぶことも時には必要なのだ。
 
まずはありったけ、ピーナッツを買い込むことから始めよう。
 
嘘と秘密を、信頼の殻で包むピーナッツ。
 
 
※当ブログ記事の無断転載、スクリーンショットSNSや動画サイト・ニュースサイトへの投稿、引用元URLを明記しないコピペや要約、一部を改変したパクリ記事あるいはパクツイなどは固くお断り致します。
 
 

バズ・ライトイヤーは「バズ・ライトイヤー」の夢を見るか?

今週のお題「SFといえば」

 

先に断っておくと、私は先日公開されたばかりの映画「バズ・ライトイヤー」は観ていない。今回はバズ・ライトイヤーというキャラクターと、彼にまつわるSF的問いかけを題材に「物語ること」について考えてみようという記事である。

 

トイ・ストーリー」シリーズの1作目に登場したバズ・ライトイヤーというキャラクターは、少々ややこしい設定だ。彼自身はアニメの主人公バズ・ライトイヤーを模したおもちゃであるにも関わらず、自分のことを「勇敢な宇宙のヒーロー、バズ・ライトイヤー」本人だと思い込んでいる。その思い込み故に、カウボーイ人形のウッディを苛立たせる。
 
「お前はただのおもちゃなんだよ!」と。
 
はじめのうちはウッディに取り合わなかったバズだが、TVのCMを見て、ようやく真実に気づいてしまう。
 
「※このおもちゃは飛べません!」
 
自分は宇宙の平和を守るヒーローじゃないし、空も飛べない、ただのおもちゃなのだと、すっかり自信を失ってしまったバズ。しかし最終的には、彼は再びアイデンティティ(自己同一性)を取り戻す。これが私=バズ・ライトイヤーなのだと。
 

アイデンティティをめぐる問題は古今東西の物語で繰り返し問われるテーマだが、特にこのバズのようなケース、つまり「自分のことを○○だと思い込んでいたが、実際には○○本人ではなかった」パターンは、思考実験のひとつである「スワンプマン(沼男)問題」として知られている。沼にハマったオタクの話ではない。おもちゃの方のバズは「バズ・ライトイヤー」沼にハマったオタクっぽさはあるがそういう話ではない。
 
沼のそばに立っていた男に雷が落ちて、男は死んでしまった。同時に沼に雷が落ちて、その沼から死んだ男そっくりの人間が現れる。沼男は死んだ男の記憶を持っていて、自分がその男本人だと思い込んで、死んだ男の家に帰る。沼男は死んだ男本人ではないが、沼で生まれたこと以外は本人とほぼ同じである。この場合、果たして両者は全くの別人だと言い切れるのか?
 
よく知られている作品だと、SF映画の傑作「ブレードランナー」および続編の「ブレードランナー2049」と、その原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も、スワンプマン問題に似た問いかけをしている。限りなく人間に近い思考能力を持つ人工知能(AI)を搭載し、限りなく人間に近い見た目をしたアンドロイドは、人間との違いを明確に判別することができるだろうか? 
 
おそらく「ブレードランナー」のこのテーマのインスピレーション元は「チューリングテスト」だろうと、ウィキペディアのスワンプマン問題の項を参照するだけでもなんとなく想像できる。互いに顔が見えない状態でAIと人間が言葉でやりとりしているとき、両者の会話に違和感を感じなかったとしたら、人間とAIの区別はつけられないかもしれない。
 
SF作品の魅力は様々あるが、私は特にこのスワンプマン問題のように、科学的な知見を用いて哲学的な思考実験ができるところが、想像力を刺激されて楽しいと感じる。
 

かの有名なデカルト「我思う、故に我有り」は、この世界の全てが幻かもしれないと疑ってみたとしても、そのように考えている自分の「意識」だけは少なくとも存在するだろう、ということを確認した言葉だった。
 
バズの場合はどうか。当然、彼にも意識はあるが、同時に「記憶」がある。「自分は宇宙のヒーロー、バズ・ライトイヤーである」という、植え付けられた記憶=架空の物語が。しかしこの記憶=物語は、おもちゃとしての彼自身のことは何ひとつ表現していない。おもちゃとしてのバズは生まれたばかりの、いわば赤ん坊であるにも関わらず、自分が経験していないことを記憶している。
 
我思う、故に我あり。しかし、この記憶は我のものではない場合、いま思考している我は何者なのか。記憶があるのに、なぜ我はその記憶の持ち主ではないのだろうか。
 
オカルト・スピリチュアル的な話題になってしまうので、あくまでもそういう証言があるという意味で紹介するが、現実世界でもまれに、前世の記憶を持って生まれてきた子供が存在するらしい。
 
Netflixの「死後の世界を探求する」のエピソード6「転生」には、既に亡くなっている映画俳優の記憶を持つ少年と、かつて硫黄島の戦いで戦死した米軍の飛行士の記憶を持って生まれた青年がインタビューに答えている。彼らの場合は、前世の記憶に悩まされることはあっても、「今ここに生きている自分は自分自身だ」という感覚も同時に持ち合わせているようだ。
 
彼らがバズと違うところは、彼らの場合はあくまでも「その記憶は前世のもの」という認識があることだろう。おもちゃのバズが生まれながらに持っていた記憶は、現在と地続きの記憶なので、それが嘘だと気づいたときの動揺は相当なものだろう。
 

バズの落胆は、精神・魂レベルだけでなく、身体的レベルでも彼を苦しめる。
 
人間とアンドロイドの違いは、思考能力あるいは意識のレベルでは、ほとんど見分けがつかないかもしれないが、身体的レベルでははっきりと違いがある。神は自らの姿に似せて人間を作ったというが、あくまでも人間は神ではないように、どれだけ人間そっくりに作られたとしても、アンドロイドの機械の身体は人間の肉体と同じではないフランケンシュタイン博士の作った怪物は、ほとんど人間のような心を持っているにも関わらず、その奇妙な肉体のせいで、人間とは認めてもらえない。
 
バズも同様に、見た目は物語の主人公そっくりに作られているのに、彼はあくまでもプラスチック製の人形に過ぎない。だから彼は腕からビームを発射できないし、背中の翼を広げても空を飛ぶこともできず、自分の無力さ、理想の自分との決定的な剥離に、彼は絶望してしまう。
 
つまりバズの場合、経験的記憶(エピソード=物語)と、身体的記憶(空を飛ぶことの喜び、スリル、技術的な成長の蓄積など)の、どちらも現在の、おもちゃである彼とは一致しないのだ。
 
念の為に書くと、ここでは彼の宇宙服も含めて、宇宙服を着ていた時にいつもしていたこと、出来たことも含めて身体的記憶とする。自転車の乗り方を身体が覚えているのと同じだ。特にバズの場合は宇宙服が身体と同化しているので。
 
バズが抱えている自己同一性の不安は、単に「その記憶は偽りだった」と思えるなら、これからは新しい人生を送ろうと気持ちを切り替えられたかもしれない。だが彼は、身体的な記憶、そして「これが私の身体である」と自己の存在を認識できる安心感さえも奪われてしまったのだ。私はこの身体レベルの問題が、かなり厄介な気がする。
 
自己認識と身体能力の不一致は「運動会で怪我するお父さん」的な悲哀を彷彿とさせるが、一方で「心と身体が一致しない」と書くと印象が大きく変わるだろう。例えば性同一性障害の方々が感じているであろう、精神的な不安や苦痛を想像せずにいられない。交通事故で四肢を切断した人の「幻肢痛」もまた、脳が自分の身体の一部を失ったことを認識できずに、その部分を動かせと信号を贈り続けていることが原因ではないかと考えられている。(参考:「記憶する体」伊藤亜紗 春秋社)
 
喉の違和感や発熱など「どこか悪い箇所がある」と思える不調のサインよりも、認知症に見られるような「普段は当たり前にできるはずのことができない」という不調のサインの方が恐ろしく感じられるのは、自分から何か大切なものが失われてしまったような気がするからではないか。
 
つまりバズの場合、自分の記憶=物語が偽りだった、勘違いだったということ以上に、自分の身体から物語が失われてしまったという、身体で感じる喪失感のほうが、彼にとってはショックだったのではないかと思うのだ。
 

「トイ・ストーリー」1作目におけるバズの役割、バズに投影された普遍的なテーマを考えるなら、「若さゆえに自分は何でもできると思いこんでいた若者が、自分の凡庸さに気づいて落胆する」とか「子供じみた夢を持つ若者が、いいかげん大人になれと現実を突きつけられる」というふうに解釈することができるし、逆に「若い頃は夢があったし、なんでもできたはずなのに、大人になってからは自分がつまらない存在に思える」とも解釈できる。それらもまた、自己認識と現実の自分自身が一致しないために発生する葛藤であり、バズはこれをどうにかして解決せねばならない。
 
映画のクライマックスで、おもちゃを改造したり破壊して遊ぶ悪趣味な少年の家から逃げ出したバズとウッディ。もといた家から引っ越していく持ち主の車を追いかけたいウッディは、いちかばちか、バズの背中に縛られた打ち上げ花火に点火し、二人で空を飛ぶ。花火が爆発する前に胸のボタンを押して翼を開くと、バズは自分を縛る糸を引き裂き(象徴的!)、気流に乗って滑空することができた。
 
自分は今、現実世界で、空を飛んでいる! 
 
叶うはずはないと思われた夢を、彼は叶えることができた。この瞬間、彼は自分が信じていた記憶を擬似的に再現する=物語るつまり、空を飛ぶという行為を実行することで、彼は自身の身体的記憶=物語追体験し、やはり自分はバズ・ライトイヤーなのだと納得することができたのだ(自己同一性の確立)。
 
実際には知らないはずなのに、かつて経験したことがあるような気がする出来事を通じて、「ああ、私が求めていたのはやはりこれだったのだ」と納得する=運命を感じるとき、彼のアイデンティティーを支えていた神話が、やはり彼には必要だったのだと気づく。(参考:本棚の上のトムキャット
 
たとえ、それが偽りの記憶=物語であったとしても、彼のアイデンティティーはその物語と身体的なレベルで結びついている。ならば、それを否定する必要はない。
 
むしろ彼が求めていたのは、架空の物語と現実に生きる自分の身体を接続し直し矛盾しない形で再解釈・再統合することだったのではないだろうか。
 
子供の頃の夢は、大人になってしまった後でも、別の形で叶えることはできる。夢=物語は、自分の身体で行為する=語る(あるいは演じる)ことで、何かその本質的な部分は保ったまま形を変えて実現することができる。
 
夢の本質的な部分とはつまり、自分が憧れる理想の存在、自分がそうなりたいと思う誰かを想像するとき、その存在のどの要素が自分の心を揺さぶるのか、という点である。おもちゃのバズにとっての「バズ・ライトイヤーの本質」とは、自由に空を飛ぶ体験=行為の身体的記憶と強く結びついていたようだ。
 
かくしてバズは、おもちゃの身体で空を飛ぶ体験を通じて、再び自分の物語を取り戻すことができた。
 
私たちも、幼い頃に憧れた存在になりたいと願うとき、見た目を真似したいならコスプレすればいいし、空を飛びたいなら、スカイダイビングをしてみるか、飛行機の運転免許を取得するのもいいだろう。ヒーローのように強くなりたいなら体を鍛えたり、人助けをしたいなら警察やレスキュー隊を目指してもいい。きっと夢=物語を語る方法は一つではない。
 
いずれにせよ、人が夢を叶えるために行動するとき、その姿が物語るのものこそが、その人自身の本質=アイデンティティなのだろう。
 
だからこそ、本気で夢を追いかける人は魅力的に見えるし、頑張る若者にはご飯を食べさせたくなるのかもしれない。
 
 
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日向坂46のBBシャツが「物語ること」について物語ること。

今週のお題「二軍のTシャツ」

 

今回はお題に沿って二軍のTシャツにまつわるエピソードをきっかけに、このブログのコンセプトである「物語ること」とはどういうことか、それについて考えたい。

 

 

これは、前回の記事に書いたアイドルグループ「日向坂46」のライブTシャツ、もといベースボール・シャツである。厳密にはTシャツではないこと、稼働率を考えれば二軍というよりは「5軍の控え」であることはご容赦頂きたい。

このTシャツが「本棚の上のトムキャット」の如く、私たちに物語ることとは何か。

 

 

まず、この日向坂46のベースボール・シャツは、2020年に「春の全国アリーナツアー」の物販グッズとして発売されたものだ。

 

 

2020年の春といえば、新型コロナウイルスの蔓延により、日本各地で音楽ライブや演劇などのイベントが中止を余儀なくされた時期だ。日向坂46もまた、全国ツアーを中止せざるを得ず、代わりに無観客のオンラインライブが開催された。つまり、このベースボール・シャツは「幻のライブツアーのグッズ」という物語を内包していることになる。

 

 

日向坂のチームカラーの空色と、その反対色であり太陽=おひさま(日向坂ファンの総称)を象徴する黄色。野球、スクールバス、そしてアイドルの三要素から想起されるのは、ハイスクールのチアリーディング部が主人公のストーリー。

しかし、実際に彼女らがスクールバスに乗り、チアリーダーの衣装で現れたのは、翌(2021)年の3月に開催された「2回目のひな誕祭」でのこと。「乗り遅れたバス」ならぬ、1年越しの「遅れてきたバス」。

 

ここまでは、このベースボール・シャツが物語る、現実世界での出来事。だが、このシャツはさらに「2020年に全国ツアーが開催されていたら、どんなことが起きただろう」と、私に語りかけてくる。

 

新型コロナウイルスが流行しなかった、あるいは早期に収束していた世界線で、私たちは何をして、どんなふうに生きていただろう。そう考えたとき、このわずか2年半の間に私たちが失ったものの大きさを思い知らされて、急に涙が溢れてきた。

それは人々の生命や財産だけでなく、これまでは普通にできたことができなくなったせいで失った時間や機会、場所、コミュニケーション、あるいは叶えられるはずだった、誰かの夢や目標。

 

「可能性としてはあり得たかもしれないが、現実には起きなかったこと=物語」について考えるとき、心が揺さぶられるのは何故だろう。

 

ところで、今度はまた別の視点で、全くの空想としてこのシャツについて考えてみよう。

 

《私は部屋の片付けをしているとき、引き出しの中から見慣れないベースボール・シャツを見つけた。私は、このシャツに記された日向坂46のライブツアーのことを、何ひとつ思い出せない。ネットで調べてみても、そんなライブが行われたという記録がない。

それもそのはず、遠い未来から来た何者かが過去を改変して、そのライブをなかったことにしてしまったのだ! タイム・スクールバスで時間旅行する日向坂46のメンバーは、人々から奪われた記憶を取り戻すことができるのか? そして黒幕の真の目的とは……?》

 

どうか寛大な心でお許し頂きたい。私は元来、こういうくだらないことを考えるのが好きな人間なのです。

 

物が語ると書いて「物語」だが、実際にはものごとから物語を読み取っているのは人間の方。このシャツが「語りかけてくる」と、物を擬人化して語らせた=物語にしたのは、他でもない私だった。

 

前回、「人は見たいもの=理想=idealしか見ない」と書いたが、もちろん私自身も例外ではない。アイドルに興味のなかった私が日向坂のファンになったのは、恐らくは私が潜在的「見たかったもの」を見せてくれたからだと思う。

それは彼女らの「見た目(見えるもの)」ではなく、「彼女らが歌って踊る姿(見えるもの)を通して語られたもの=物語(見えないもの)」に他ならない。そして私が見たかった物語は、日向坂46という語り部でなければ見ることができなかった。

 

ただし、彼女たちがアイドルである前に生きた人間である以上は、やはり勝手な理想ばかり押し付けてはいけないし、悲観しすぎてもいけない。いちファンとして、彼女たちの希望と絶望はセットで受け止めてあげたいし、ネガティヴな感情さえも肯定してあげたい、という老婆心を小難しく長々と書いたのが前回の記事である。

 

torafujikuraud.hatenablog.com

 

さぁ、ここからが本題だ。「物語ること」とはなんだろうか? 

 

私は、なぜ人が物語を必要とするのか、なぜ人は物語を作りたがるのか、作ってしまうのかに興味がある。そして、人々がそれぞれのやり方で何かを語り、語り継いでいくことを通して、新たに(広い意味での)物語が形作られていく、その過程に興味がある。

 

人間は、おしゃべりをするのも聞くのも好きな生き物で、特にその場面や情景を想像できるようなエピソード=物語を求める。その物語が事実だろうと、誤解や思い込み(あるいは嘘)であろうと問題ではなく、むしろ「嘘か本当かわからない」くらいのほうが楽しかったりする。

 

「昨日は嬉しいことがあって……」(なになに?)

「あれが何か知ってる?」(知らない、教えて!)

「あのウワサ、実はこんな裏があって……」(嘘でしょ? 本当に?)

 

おまじない・ジンクス・占いもまた、広い意味での物語=小さな嘘で、信じられないからこそ信じたくなるし、それが当たるかどうかは、実はそれほど重要でもなかったりする。

たとえば「四つ葉のクローバーを見つけると幸せになれる」というジンクスは、実際にはクローバー自体ではなく、珍しいものを探す時間のわくわくと、見つけたときの喜びと、押し花の栞を作りながらプレゼントする相手を想う時間が、その人を幸せにする。つまりは四つ葉のクローバーを「見つける」という行為こそが重要で、四つ葉のクローバーを集める過程で生まれた物語こそが、押し花の栞の価値を高める。

 

占いは、その結果が「当たる」かどうかより、それを聞いて何か「思い当たる」フシがあるのか、あるならそれをどうしたいのかを確認して、どう対処すべきかを考える、つまりカウンセリング的な作業の方が大切なのだろう。

占いたい、という欲求はつまり、なにか解決したい問題を抱えているという意味なので、占ってもらうことは「占い師に悩みを語る」行為だ。そして占うことは、その悩みを受けたうえで、星座やタロットカードが物語るものを相手に伝える行為で、それを聞いた人は占いの結果=物語を自分の人生に取り込んでいく。(もちろん、気をつけなければ高いツボを買わされる羽目になるのだが)

 

「痛いの痛いの飛んでけ〜」というおまじないは、実際に痛みが引いていくことより、泣いているこどもを安心させることに意味がある。安心すれば、その傷が思っていたほど痛くないことに気がつく。だから効果はないはずなのに、ちゃんと効果はある。

 

「種も仕掛けもございません」が嘘=物語なことは誰だって知っている。知っているにもかかわらず、種と仕掛けを見破れない、それがマジック=魔法だ。そして、人間は勝手な生き物で、ネタバラシされると意外とがっかりする。つまり観客にとっては「本当に魔法は実在するのかも……」と想像する=物語を味わう時間が大事なのだろう。

 

サンタクロースは実在してもいいが、実は家族や身近な大人だったと知ることも良い経験になる。最終的に、クリスマスの思い出が良いものとしてその子の記憶に残ることが重要で、ならば、むしろサンタクロースは実在しなくて問題ない。その物語があることのほうが大事なのだ。

 

このように、人間は日常の様々な場面で物語を使い、実生活で活用し、役立てている。物語・フィクションには、現実を書き換える力がある。その力は、良い影響だけでなく、悪い影響ももたらす。

 

日常の営みとしてストーリーを語ることと、映画や漫画、小説、演劇、ダンス、アニメなどの創作物における物語の作り方は、おそらくは地続きなのだろうと思う。同時に、観客が創作物・フィクションの物語を理解しようとする過程もまた、日常レベルでの物語の受容と同じ方法・手順で為されている、気がする。

つまり私たちは、現実を理解するのと同じ方法で創作物・フィクションを理解するし、フィクションを見るときと同じやりかたで現実を見ているのではないか。

 

私たちは自分で思っている以上に、現実と虚構を区別できていない気がする。それが良い・悪いの問題ではなく、そもそも脳の中の同じシステムを使っているから、そうならざるを得ない、という仮説(=フィクション=物語)。

 

もう一つ肝心なことは、物語を創作する過程と、物語を受け取り理解しようとする過程は、実は脳内で同じ方法・手順を用いているのではないか。という仮説。

たとえば、推理小説の主人公がある事件について推理する(=仮定の物語を作る)とき、読者がその推理を読んで理解しようとしたなら、そのときに脳内で行っている作業は、探偵の語りを読者が語り直しているのと同じではないだろうか。という発想。

 

私は今回、ベースボール・シャツが物語ること(その物に付随するエピソード)を理解するために、ベースボール・シャツが「語りかけてきた」という物語(擬人化・メタファー)の形に脳内で変換して、このブログで読者の皆様にご説明した。

 

私たち人間は、他者が語った物語を理解しようとするとき、あるいは誰かから聞いた物語を別の誰かに説明しようとするとき、自分の言葉でそれを語り直す。ときにはメタファーを用いながら。しかし、語り直したことで、物語が微妙に変化していく。なぜなら他者と自分とでは持っている語彙(ボキャブラリー)と物語(知識・経験)が違うから。物語が語り直されるたびに微妙に変化し、そこで生まれた差異によって、新たな意味を発見できるかもしれない。

物語るという行為を実際に行う、語り直すという過程を経ることで、人は少しずつ見えるものを増やし、新しい「ものの見方(捉え方)」、視点を獲得していくのではないか。という仮説=物語。

 

私はこういうことに興味がある。

 

というわけで私は、このブログでは「物語」と「物語る」ことについて考えるために、物語を参照しながら物語ることにした。不定期更新なので、お暇なときにふと訪ねてくれたらこれ幸い。

 

《おしまい》

 

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語ること、言葉にすること、物語ること、生きること――日向坂46 ドキュメンタリー「希望と絶望 その涙を誰も知らない」

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「物語にしてほしくない」
「ストーリーにされたくない」

 

 アイドルグループ・日向坂46のキャプテン、佐々木久美は、コロナ禍の2年間と今年3月末の東京ドーム公演までの活動を振り返り、そう語った。
 
 彼女たちのドキュメンタリー映画を監督した竹中優介もまた「美談にはしたくなかった」と語っているし、少々「盛ってるで!(by まなふぃ)だった予告編に比べれば、実際に完成した作品は淡々として抑制の効いた作品だったと思う。
 
 しかし、この映画のタイトルが”物語る=喚起させる”イメージはやけに”ドラマチック=劇的”で、どうしても観客を身構えさせる。
 
 
「希望と絶望 その涙を誰も知らない」

 この映画はあくまでドキュメンタリーだが、事実が他者の語りによって物語になる可能性からは逃れられない。監督によって取捨選択された記録映像が、そこに映る日向坂メンバーの姿が、何かを”物語る=印象を与える”以上、観客は映画では「語られなかったこと」を自分の脳内で補完し、ストーリーにしてしまう可能性は否定できない。
 
 本作で主な”語り部”としてインタビューに答える佐々木は、
 
「私たちは生きた人間だから」
「(辛いこともあったけど仲間と共に乗り越えた、という)ストーリーとして消化(昇華?)されたくない」
 
とも語っている。「消費」されたくない、だったかもしれない。自分たちが経験した苦しみを一方的に分かりやすく噛み砕いて→消化して、お涙頂戴の感動の物語として昇華されたくない、消費されたくない。
 
 日向坂をはじめとするアイドル・芸能人・著名人の人生の一部は、世間からは物語・ストーリーとして消費される。Instagramの”ストーリー”という機能がまさにそうであるように、人生のうちのほんの数秒がストーリーとして切り売りされていく。
 
 アンディ・ウォーホル「将来、人は15分間だけ有名になれるだろう」と未来を予想していたが、tiktokなら15秒間だけ有名になれる。ファンはまた、その切り取られ、フィルターで加工された15秒間にものすごい「意味=価値」を感じて夢中になる。
 
 人は「見たいもの=理想=ideal」しか見ない。
 
 しかし、人生の大部分はSNSにはアップされない。日向坂46が歩んだ2年と3ヶ月=約800日に起きた出来事は、その全てを120分には収められない。それに、カメラがどれだけ事実を映し出そうと、彼女たちが自分の身体で実際に経験したことまでは、フィルムには残らない。要するに、この映画では「語られない」時間の方が圧倒的に多い。
 
 人は「見られる=見ることが可能なもの」しか見ることはできない。
 

 この映画には、日向坂46がコロナ禍でグループの活動を制限されたり、メンバーが相次いで体調を崩して休業したりと、彼女らが心身ともに疲弊した姿が記録されている。加藤史帆が苦痛に顔を歪める場面や、濱岸ひよりがコロナに感染したと聞いて渡邉美穂が泣き崩れる姿、そして小坂菜緒が休業から復帰しても、未だに万全とは言い難い状況であることなど、胸が痛くなる場面も多い。
 
 キャプテンとして、当事者としてその場に立ち会ってきた佐々木久美が、こうした出来事を無視して「キラキラしたアイドルの青春のストーリー」と思われるのも、逆にこれらの出来事を踏まえて「辛い経験をみんなの絆で乗り越えた、感動の実話」にされるのも、快く思わないのは理解できる。
 
 しかし同時に、この映画に描かれたネガティブな面”だけ”を真実と思い込み、「アイドルがファンに見せるポジティブさは”全て”嘘だったんだ」と過剰に反応するのも違うだろう。彼女たちを一方的に「悲劇のヒロイン」あるいは「哀れなアイドル」扱いするなら、それもまた「ストーリーとして消費」する行為ではないだろうか。
 
 念の為に書いておくが、私は彼女らが経験した苦悩を軽視していいと言っているのではない。
 
 本編でも描かれていたように、セットリストの見直しなど、現場レベルでは話し合って改善できることも多い。長期の活動でストレスが溜まり、メンバー間でモチベーションに差が生まれるのは、映画や演劇、音楽、あるいはスポーツの分野で普通に起きることだし、ハードな練習をしたら、休憩時間は疲れて横になりたくもなる。経営陣とプレイヤー側で見ているものが違ってしまうのも、ある程度は仕方のないことで、それもまた対話を重ねて解決していくしかない。
 
 一方で、例えば真夏の日中での野外ライブは、どれだけ熱中症対策をしていても厳しいものがあるだろう(※今年は夕方開演らしい)。また、メンバーのうちの誰かが過酷なスケジュールで疲弊して、おそらくは心身のバランスが崩れてきているであろう姿を見ると、その周りのメンバーとスタッフの心配、不安、そして後悔も相当なものだったと思う。
 
 この映画には描かれなかった=語られなかったことだが、ネット上の誹謗中傷や事実と異なる憶測による批判=他者によって歪曲されたストーリーが彼女たちに与える影響もあったかもしれない。
 
 何より、コロナ禍が世界中の人々に与えた影響がどれほどのものだったか、改めて振り返ってみてほしい。特にエンタメ業界が「不要不急」のレッテルを貼られ苦境を強いられたこと、Stay Homeで物理的に人と会えない時間があったこと。無観客ライブ。
 

 ところで、先に挙げた真夏の野外ライブの後、運営から「はじめて『誰よりも高く跳べ』で感動できなかった」「がむしゃらさが足りない」と言われて、悔しさのあまり、佐々木久美と加藤史帆が叫ぶ場面があった。
 
「どーせ、うちらは『か弱い女』だよ!」
 
 自分たちを「か弱い女」扱いされるのは嫌だし、猛暑の中で全力を尽くしたのに「がむしゃらじゃない」と思われるのも嫌だ。ならば同様に、この場面を見て「大人たちに勝手なことを言われる可哀想なアイドル」のイメージ=ストーリー”だけ”を受け取るのも違うだろう。
 
 この映画を見て辛い気持ちになった方は、ぜひ「3回目のひな誕祭」のDVD、Bru-ray限定版の特典映像を見て気持ちを落ち着けて頂きたい。
 
 
 彼女たちがバラエティ番組で見せる笑顔は嘘ではないし、メンバー間で気持ちのすれ違いがあったとしても、彼女たちの仲の良さは嘘ではないだろう。
 
「2回目のひな誕祭」で、約1年3ヶ月ぶりに日向坂メンバーとおひさま(ファン)が顔を合わせたとき、あの瞬間に彼女たちが流した喜びの涙も、嘘ではないはずだ。
 
 東京ドーム公演の映像をDVDで観たとしても、ライブ=live=”生きた”人間の声は、肉体と呼吸と汗と血液の躍動は、その場に居合わせた人にしか理解できないし、そこで彼女たちが実際に経験し、感じたことは彼女たちにしか分からない。
 
 革命はテレビには映らない――ギル・スコット・ヘロン
(Revolution will not be televised. by Gil scott-heron
 

 

 物語とは「語られたもの」であると同時に、「何を語らないか」を選択した結果、網の目に引っかかって残ったものでもある。そして語られたことも、語られなかったことも、どちらも真実である。
 
 しかし人は「語られたもの」に対して、自分が「見えるもの=理解できること」だけで物事を捉えようとしてしまう。
 
 同時に、人は「見えないもの」ほど見たくなるし、見えないものほど意味=価値があると思い込む。
 
 語り部以外の他人が根拠のない憶測で「語られなかったこと」を補完して、別の物語にしてしまう=「見たいようにしか見ない」可能性もある。
 
 スクリーンに映っていたのは、あくまでも「佐々木久美」加藤史帆という二人の人間が叫んでいる姿だ。たとえ彼女たちが「アイドル=idol=偶像」だとしても、生きた人間である彼女たちから名前と、彼女たち自身の言葉を奪ってはいけない。
 

 暖かな日向にも、けやきの木が立っていれば、その裏側には日陰ができる。同様に櫻の木の下には死体が埋まっているわけだが、私たちは「光と影(陰)」「生と死」の比喩を用いるとき、ついついそれを「良し悪し」「ポジティブ・ネガティブ」の二項対立として理解しがちである。
 
 だが人は、涼しさを求めて木陰で休む(人が木の陰に佇む様を「休」と書く)。死体は土の中で分解され、櫻の木を育てる栄養となる。ならば恐れる必要はない。
 
  私たちはネガティブなものを過剰に恐れるあまり、かえってネガティブになってはいないか。ネガティブなものを否定(=ネガティブ)しすぎてはいないか。ポジティブな経験とネガティブな経験を天秤にかけ、片方が多かったら、もう片方を帳消しにできるわけでもないだろうに。
 
 希望と絶望のどちらも事実なら、絶望は絶望として受け入れ、希望は希望として受け入れる。良い瞬間も悪い瞬間も、そのときに感じたことを忘れたくない、どちらかを無かったことにはしたくない。
 
 なぜならそれが「人生」だから。
 
 自分の人生を、他人から一方的に「悲劇」だの「感動の物語」と決めつけられ、噂話のタネとして消費され、あっという間に忘れ去られていく。
 
 そんなことはまっぴらごめんだ。
 
 佐々木久美が「物語にしてほしくない」と語ったのは、そういう意味ではないかと思う。だが、これもあくまで私が彼女の語りから想像したストーリー=ただの憶測にすぎない。
 
 ところで、佐々木は「完璧なキャプテン」というイメージが強いし、メンバーからの信頼も厚い。だが彼女だって、相次ぐメンバーの休業や、仕事の過酷さに傷ついていないわけがない。むしろ、仲間の苦しみを自分のこととして傷つく人でなければ、信頼されるキャプテンになれるはずがない。
 
 ならば、苦しんでいる仲間を思って傷つき、涙することは、ネガティブな"だけ"の出来事ではないだろう。
 
 櫻坂46の前身である欅坂46が、若者の孤独、怒り、反抗などのネガティブな感情を歌い、それが多くの人々の共感を得たことも忘れてはいけない。ネガティブな想いを歌うことは、はたして本当にネガティブな行為なのか?
  

 東京ドーム公演のアンコールで発表された新曲「僕なんか」が、これまで「ハッピーオーラ」のイメージを打ち出してきたグループにとって、珍しくネガティブな感情を表現し、ネガティブさを乗り越えようとする歌詞であったことは、おそらく偶然ではない。
 
 この曲が休養していた小坂菜緒の復帰を想起させるのは、秋元康がそのように作詞したからだ。秋元は彼女らの姿に触発されて、ストーリー=歌詞を書いている。
 
 日向坂46の楽曲の魅力は、日向坂46のメンバーの個性とその”あゆみ”=ストーリーが持つ文脈によって支えられている。たとえば、けやき坂46時代の「イマニミテイロ」という曲を、彼女らのことを全く知らずに聴いたときと、「日向坂46ストーリー」(集英社刊)を読んでから聴くのとでは、印象が大きく変わるはずだ。
 
 あるいは「君のため何ができるだろう」の歌詞について。今年6月28日に行われた、渡邉美穂の卒業セレモニーで、2期生全員と上村ひなのが、渡邉美穂のために、富田鈴花のピアノの伴奏で歌った。という5W1Hが付加されたことにより、この曲の歌詞が、今まで以上に強い意味を表現するようになった。
 
 つまりは「その物語を誰が歌うのか=誰がストーリーを語るのか」が重要なのだ(※これは秋元自身が語ったことでもある)。
 
 欅坂46の楽曲の世界観=ストーリーが欅坂メンバー、特にセンターの平手友梨奈の個性と相関関係にあったのも、まさにそのように歌詞が書かれたからだし、それは他の作詞家・ミュージシャンもしていることだろう。ヒップホップなどは特に、リリックから語り部=ラッパー自身を切り離せない。
 
 この点に関して、「じゃあ、やっぱり彼女たちはストーリー化されているんじゃないのか?」という疑問は当然浮かんでくるだろう。
 
 しかしあくまでも、その歌詞に描かれたストーリーは語り部=彼女たち自身が主人公の物語ではない。彼女たちから着想を得て、「彼女たちから生まれた物語」だ。語り部を役者と言い換えるなら、いわゆる「当て書き」をしているのに近い。だからその疑問の答えは「半分イエスで半分ノー」だろう。
 
 日向坂の歌詞の場合、他者が自分たちをもとに書いたストーリーだったとしても、それを自分たちの声で歌う=語ることによって新たな意味を付与する権利(君のため何ができるだろうの例のように)があるし、新たな歌詞がどんなストーリーになるかは、自分たちの行動次第で常に変わっていく。
 

「私たちは自分たちのストーリーを、創りながら進んでるんです」

 

 映画の終盤で佐々木久美がそう語っていたことと、日向坂メンバーたちがいつからか「言霊」という言葉を使うようになったことは、おそらく無関係ではない。
 
 自分の言葉で「これをやりたい」と発信することで、実際に新たな仕事に繋がる。ライブの進行に問題があるなら、改善してほしいと伝えることで、ストレスを減らせる。「ハッピー!」と声に出してみるだけで、なぜかハッピーな気持ちになれる。「待ってるよ」と伝えることで、休養中の仲間が安心して戻ってこられるようになる。
 
 言葉には力があることを、彼女たちは知っているのだ。
 
 加藤史帆は、ファンから自身の愛情表現が「重い」と言われたことに対して、こう反論した。
 

「私は思ってること口に出してるだけなんですよ」

「みんな心に秘めすぎです!」

日向坂46加藤史帆、ファンからの“愛が重い”指摘に反論?「みんな心に秘めすぎです!」 | E-TALENTBANK co.,ltd.

 

 彼女が重いのではない。彼女は「言葉の重み」を知っているのだ。好きだから「好き」と言う、嬉しいから「ありがとう」と伝える。当たり前のようでいて、意外と素直には言えないことを、はっきりと言葉にする、その重要性を。
 
 約2年半に及ぶコロナ禍で、物理的にも心理的にも人々に距離ができてしまった中で、彼女たちは言葉の力を再発見した。なぜ「再」発見なのか? まだ無名の新人だった「ひらがなけやき」時代、彼女たちの武器は「あいさつ」だった。
 
「おはようございます」
「よろしくお願いします」
「ありがとうございました」
 
 シンプルな言葉から伝わる熱に嘘はない。その熱が少しずつ周りの人々に伝わったからこそ、今の日向坂がある。(詳しいことは『3年目のデビュー』をご覧頂きたい)
 
 
 生きた人間である彼女らにとって、他者の語りによって自分の人生が物語=フィクションにされてしまうことは恐ろしい。
 
 だが彼女たちは、自分たちが語る言葉で、自分たちの物語=ドキュメンタリーを創造する。
 
 彼女たち自身が作った物語は、決して彼女たちから奪うことはできない。
 
 なぜならそれが「人生」だから。
 
 エンドロールの後、卒業を控えた渡邉美穂が佐々木久美に伝えた言葉の裏に、どんな思いがあったのか、それは当人たちにしか分からない。
 
 だが、ひとつ確かなことは、彼女たちは言霊を、言葉の力を信じている。
 
 
 シンプルな言葉から伝わる熱に嘘はない。
 
 嘘のない言葉は道を作っていく。
 
 陽だまりが雪を溶かすように。
 
 
 
 
 

本棚の上のトムキャット――「トップガン:マーヴェリック」

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 映画館の入り口に置かれたタミヤのプラモデルを見て、幼い頃に同じものが家にあったのを思い出した。

 
 F-14戦闘機、通称トムキャット。三角形で灰色の機体の先端に、サメのような顔のステッカーが貼られていた。
 
 ものごころついたときには既にそこにあった気がするので、私が欲しがったものではないだろう。少なくとも、あれを作ったのは私ではない。
 
 が、実家のこども部屋の本棚の上に飾られた、埃にまみれたプラモデルとそのサメの顔を思い出して、なんとなく暗い気持ちになってしまった。改めて思い出すと、幼い私は、そのサメの顔が好きではなかった。
 

 

1

 私は映画「トップガン」を観たことがないし、その続編の「マーヴェリック」も、本来は観るつもりはなかった。そもそも、ここ10年近く続いている80〜90年代リバイバルに対して、正直あまり良い印象は抱いていない。それは映画に限らず、懐かしのアニメ風のイラストや、シティポップ、復刻版のエアマックスでさえ、私は少し距離を置きたいと思ってしまう。
 
 名作映画の、いわゆる公式の続編やリメイク版も全く観ないわけではないし、それらの中にも優れた作品があるのは事実だ。しかし、たとえば「マトリックス」は大好きな作品だったのに、「レザレクション」はなんとなくスルーしてしまった。
 
 それに(これもあくまで仮定の話だが)「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がどんなに面白くても、現代の作品の中でそのオマージュを見させられても、別に嬉しくはない。そうした作品が劣っていると言いたいのでなく、ただ「オマージュしたいからオマージュした」ようなものは、私の琴線に触れないのだ。
 
 単純に、私は80〜90年代を青春の記憶として楽しめる世代でもないし、全く未知の財宝として面白がれる世代でもないのだろう。その時代のものは、私にとってはいわば「本棚の上のトムキャット」のようなものなのだ。埃をかぶったサメの顔に対する、幼い私の抱いた嫌悪。そして過ぎ去った時の果てしなさに対する、大人になった私の眩暈。私はプラモデルの箱の匂いを、素直に懐かしいとは喜べない。
 
 だから私は、未だに「ストレンジャー・シングス」を観る気にはなれない。
 

2

前置きが長くなったが、「トップガン:マーヴェリック」は映画としてはとても良かった。もちろん隙や欠点がないとは言わないが、それこそ夏の夜に麦茶を飲みながら「金曜ロードショー」か「日曜洋画劇場」で観るのにちょうどいい、そういう映画だった。
 
「居間のテレビで、家族とともに映画を観る」
「学校に行ったら友だちも同じ映画を見ていて、みんなでその真似をする」
「麦茶、テレビから聞こえる音、セミの声、扇風機、親が飲むビールの泡、枝豆、露に濡れたランチョンマット」
 
 こうした、かつて現実だった具体的なエピソードが、年齢を重ねるごとに抽象度を高めていく。私はときどき、ノスタルジーが怖い。
 
 それはトラウマという意味ではなく、ノスタルジー、あるいは記憶という概念それ自体に伴う性質のことだ。藤子・F・不二雄の短編漫画に「ノスタル爺」という、文字通りノスタルジーに囚われた老人の話があるが、あれを読んだときに感じる恐怖のことだ。あるいは手塚治虫の「雨ふり小僧」のような、童心に付随する妙な痛みと罪悪感。
 
 過去は「過去である」というだけで既に恐ろしい。もはや現在にその実体は無いのに、過去は「存在した」という形で今も存在し続けている。ゾンビが恐ろしいのは、過去が「過去である」状態のまま身体だけが動いているから、つまり実体を伴って「かつて存在していた人」として存在しているからだろう。
 
 遺体=新鮮(fresh)ではない肉(flesh)。
 
 過去に対する恐怖は、転じて未来=未知への恐怖に繋がる。人は未来のことを、過去を基準にして予想するからだ。トラウマ・PTSDは、未来への予測をネガティブな方向に歪曲してしまう。個人的な経験だけでなく、親や先祖、あるいはその土地に住む人々の間で繰り返し語り継がれ、彼らの行動様式にまで影響を与えてしまうネガティブな過去の記憶=トラウマ。それを、人は「呪い」と呼ぶのだろう。
 
 人間の記憶は、特に強い感情を伴う記憶は、それにまつわる物や場所に染み付き、固着する。断捨離を必要とする人がいるのはこのためだ。物に付随する過去の記憶が蘇るとき、それが悪い記憶ならば、記憶のトリガーとなる物を手放した方がいい。断捨離は必要ないという人は、言い換えれば自分の家の中が「ときめく」もので溢れているのだろう。良い思い出もまた、物や場所に染み付く。
 
 物に対する執着、あるいは後悔。記憶を喚起するもの=メディア。
 
「何を見ても何かを思い出す」(ヘミングウェイ
 
失われた時を求めて」(プルースト)のひとかけらのマドレーヌ
 
 あるいは「本棚の上のトムキャット」
 

3

 さて、ようやく本筋に戻るわけだが、「トップガン:マーヴェリック」は過去を受け入れ、呪いを断ち、過去を乗り越える物語だ。
 
 あの懐かしいテーマ曲とともに、サングラス、無地の白いシャツ、ジーンズ、カワサキのバイク、そしてピカピカの戦闘機。あの頃と変わらない姿、あの頃と変わらない笑顔で、トム・クルーズ演じるピート(コードネーム:マーヴェリック)が現れる。まるで約30年前にタイムスリップしたかのように、あるいは過ぎゆく時の中で、彼の時間だけが止まっていたかのように。
 
 昇進を拒み、現役のいちパイロットに留まっていたピートは、上官の命令を無視して最新型の音速ジェット機の試運転を強行した。そして速度がマッハ10を超えたとき、機体が破損して海に墜落してしまう。責任を問われた彼は異動となり、かつての古巣である海軍航空基地「トップガン」の教官に任命された。そこに集まった優秀な若手パイロットの中には、かつての友人であり、作戦中に命を落としたニック(グース)の息子、ブラッドリー(ルースター)もいる。
 
 彼はピートを憎んでいた。なぜなら、ピートはニックを救えなかったことを後悔し、その罪悪感から、彼の海軍学校への志願書の提出を拒否していたのだ。しかしその結果、ピートは彼から4年という、若者には長すぎる時間を、夢を叶える機会を奪ってしまった。ニックの息子を死なせたくないという恐怖と責任感が、彼を傷つけてしまったのだ。
 
 結局、最もピートを責めていたのは彼自身だった。彼はブラッドリーの顔にニックの亡霊を見ていたのかもしれないが、その亡霊の正体は、他でもない自分自身なのだ。彼は過去を水に流し、自分を許し、自らにかけた呪いを解かなければならない。デロリアンならぬトムキャットに乗って、バック・トゥ・ザ・フューチャー=過去から未来に帰らなくてはならないのだ。
 
 浜辺でのフットボールは、この映画で最も胸を打つ場面のひとつだ。傍目には普通の若者たちの戯れにしか見えないが、やがて彼らは「実現不可能(インポッシブル)なミッション」に飛び込み、この中の誰かは死ぬかもしれないのだ。全員で生き残るためには、任務を成功させるしかない。
 
 ではどうすればいいか? もし失敗しても、現実世界にタイムマシンは無い。時間旅行をするにはマッハ10では遅すぎる。
 
 しかし人間は「現在にいながら過去を繰り返す」ことができる。身も蓋もないほど単純な方法で。
 
 そう、練習あるのみ。
 

4

 物語は後半から、3つのレイヤーでループ構造をとる。一つ目は、広い意味でのスポーツものとしての「練習→本番」のループ構造だ。それが野球であれ格闘技であれ、「練習では上手くできなかった、あの大技を成功させられるだろうか」と、期待と不安の入り混じった気持ちで本番を迎えるように、主人公らと映画の観客は「あらかじめ知っていること=過去」を追体験する。
 
 そういう意味では、同じくトム・クルーズ主演の「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のような、いわゆる「ループもの」と変わらない。過去に戻って何度もやり直すか、未来の可能性を検証して何度もシュミレーションするかの違いだ。
 
 二つ目のループは「トラウマの再現・再演」だ。ピートはニックの息子ブラッドリーをアシストし、彼の生命を守ることで、ニックを救えなかった自分を許し、トラウマを癒すことができた。過去に戻って悲劇を防ぐことはできなくても、過去に似た場面を経験することで、その意味をポジティブに上書きすることはできるのだ。
 
 かたやブラッドリーは亡き父の相棒であったピートとバディを組むことで、父がピートと過ごした時間を追体験する。父の役割を演じることで、彼はようやく父親とピートの絆の強さを理解し、ピートを許すことができた。彼はこれから空を飛ぶたびに、そこに父の面影を見出すだろう。
 
 そして3つ目は、多くの方が指摘しているとは思うが、ピートたちの作戦が「スター・ウォーズ」のデス・スター破壊作戦の再現であるということだ。世界中の人が、おそらく何度も繰り返し(ループし)て観たであろう名作映画の記憶=過去を忍び込ませ、観客に追体験させている。
 
 一方で、作り手側の視点に立てば「自分もスターウォーズを撮りたい!」という夢を叶えようとしているわけだが、それはかつてジョージ・ルーカスら製作陣が経験したこと=過去を追体験するのと同じだ。たとえば将棋で、過去の名人の棋譜を見ながら一手ずつ駒をならべていくことで、当時の名人の思考の流れや駆け引きの緊張感を「身体で」理解していくことに似ている。
 
 本稿の序盤で私は「オマージュのためのオマージュを観ても嬉しくない」と書いたが、これに関してはオマージュの域を超えて「完コピ」、さらには「本家越え」を目論んでいるかのようだ。なにしろ本作の俳優たちは、本物の戦闘機を自ら運転しているのだから。
 
 本家(とはいえルーカスが離脱した)スター・ウォーズのep.8「最後のジェダイ」では、主人公たち新世代の若者が、かつてのルークやハン・ソロの活躍を再現しようとして失敗する様を描き、「過去に囚われるな。現在の自分のやり方で乗り越えろ」と、メタ的に見れば昨今の80年代リバイバル批判ともとれるテーマを提示した。
 
 かたや「トップガン:マーヴェリック」は、むしろ「現在の自分たちのやり方」でデス・スター破壊作戦を再現することで、スター・ウォーズという「過去」を踏襲しつつ、クオリティ面でそれを乗り越えようとしている。まるで最新型の漫才のスタイルで新しい笑いを追求するか、古典落語を極めて師匠を超えるか、みたいな話だが、そのどちらも間違いではないように、私は「最後のジェダイ」も「マーヴェリック」も間違いだとは思わない。大切なのは「過去を乗り越える」ことだから。
 

5

 ところで、この作品には奇妙な特徴があって、それはピートたちの敵(悪役)が「ならずもの国家(ローグ・ネイション)」とはいわれているが、彼らが何者であるかは一切わからない、つまり「顔と名前を持つ生きた人間」が一人も現れないことだ。敵方で唯一の登場人物である飛行機のパイロットたちは、顔を黒いマスクで覆われ、「ダースベイダー」のような名前を与えられず、言葉も発しない。
 
 政治的な配慮として具体的な国を想定させないためでもあるだろうが、同時に「自分の仲間が殺されるのは嫌だが、敵を殺すのは致し方ない」という、戦争から引き剥がすことのできない矛盾・欺瞞・あるいは罪悪感を、観客には感じさせない、気づかせないようにしている。
 
 もし敵方のパイロットが顔と名前を持つ生きた人間なら、彼を撃ち落としたとき、観客はそこに彼の息子(=もう一人のブラッドリー)の顔を想起せざるを得ない。これを突き詰めると、最終的には「本当の『悪』は敵の国家ではなく『戦争』そのもの。戦争を止めよう」という話になる。
 
 そこをあえてテーマにしないのは、当事者であるアメリカ人はすでに「そんな話は現実でもフィクションでも、もう何度も見た、聞き飽きた」ということかもしれない。イラクから撤退したバイデン政権と、戦争に疲れたアメリカ人。
 
 とにかく「他者=自分の写し身である悪役との戦いを通して、自身が抱える内面的な葛藤を克服する」という、広い意味でのヒーロー映画の基本構造を、この作品では踏襲することが難しい。舞台が現実世界で、実在する戦闘機が登場する以上、現実の戦争を想起せざるを得ないからだ。
 
 だからこそ、本作では敵方から人格を奪い、主人公の真の敵である「自分にかけた呪い=トラウマ」のメタファーとして、顔の無い、名無しの亡霊を出現させたのだろう。戦争を題材にしながら戦争映画であることを避け、個人の内面的な葛藤だけに焦点を当てている。
 
 終盤、ピートとブラッドリーのピンチを救うためにハングマン(=処刑人)が敵方の飛行機を撃ち落としたとて(パイロットが脱出できたのかは失念したが)、相手は人格のない亡霊(というより、もはや人形・舞台装置)なのだから罪悪感も生まれないというわけだ。
 

6

 ここで比較として、現実世界で実際に起きた事件をもとにした、クリント・イーストウッド監督の「15時17分、パリ行き」を紹介したい。この映画は、2015年、オランダはアムステルダムからパリに向かう急行列車で起きた無差別テロ「タリス銃乱射事件」を題材にしているのだが、主人公である3人の若者を演じたのは、実際にその事件に居合わせ、テロ実行犯を取り押さえた若者たち自身だ。
 
 この映画にもまた、トップガンのようなループ構造が存在する。一つは、彼らがそれまでに経験したこと(軍事訓練など)が、テロの鎮圧に活かされるという「練習→本番」のループ。
 
 もう一つは、彼ら3人が現実の人生で実際に経験したこと(過去)を、映画という虚構の中で「再現=再演」するループ。
 
 三つめのループは、リアルタイムでその事件の報道を聞いた人々、その列車に乗っていた人とその家族や友人、パリでその列車の到着を待っていた人、アムステルダムでその列車に乗るかもしれなかった人々が、映画館で「再び事件を目撃する」、つまり観客としての経験のループ。
 
 この作品にはどこか、物語の起源を感じる。遠い昔、村の狩人がマンモスなどの巨大な獲物を捕らえる様子を、彼ら自身とその目撃者が身振り手振りで語り、その話を聞いた村の人々が、自分の子孫、よその村の人間に語り継いでいくような、原初的な風景。
 
 特に一つめの「練習→本番」のループを、まるで彼らが事件に居合わせたことが「運命」であったかのように表現している点に、神話や英雄伝説の起源を感じる。
 
「(登場人物や観客は)あらかじめ何が起きるか知っている」ことは「過去の再現・再演」のループ構造の特徴である。だが一方で「あらかじめ何が起きるかは決まっている。しかし、それは神のみぞ知る」場合、人はそれは「運命」と呼ぶ。
 
 もちろん、権力者が自らの業績に神の存在を結びつけることもあっただろう。それとは別に、人が過去を振り返り、それぞれ無関係に思えたさまざまな出来事に、意味のある繋がりを見出したとき、まるで「全ては運命だったのではないか」と感じることがある。
 
 たとえその瞬間は辛く苦しくても、後に当時を振り返ったとき、その経験さえ意味があったのではないかと思えたとき、まるで人生が「自分自身の意志を超えた、大いなる力によって導かれていた」「未来はあらかじめそうなるように決められていた=運命だった」かのような錯覚を覚える。
 
 人間は運命を感じたときに、そこに神の存在を感じるのかもしれない。(※ここでいう神とは『人智を超えた力そのもの』の意味であり、具体的な人格を持つ偶像ではない)
 
 しかし、そうなると人は、リアルタイムでは神の存在を感じられず、過去の記憶の中に、神の足跡を見出すことしかできないことになる。
 
 だとすれば、古来より人間が物語を欲し、伝説を語り継いできたのは、過去を繰り返し語ることで、そのループ構造の中に神の痕跡、神がいた瞬間を保存し、再現・再演するためかもしれない。語るという行為、あるいは読むという行為による身体的な再現・再演によって、人は疑似的に神と再会しようとしている。
 
 演劇・舞踊が宗教的儀式から始まったのは、録画媒体のない時代のビデオカメラとして、神の痕跡を保存するため。そして、それを上演することで、演者および観客に神の存在を実感させるためだった。それがいまでは、映画がクラウド=雲=天国・天界に保存され、ストリーミング=川のように流れて私たちのタブレット=石版に降りてくるようになった。メタファー上は、まるで神々と直接データのやりとりをしているようだ。
 

7

 リバイバル(revival)
 日本語では「復活・再生・再演」などを意味する。
 
 過去を再現・再演するという行為は、一つには呪いを解く=過去を乗り越えるための行為である。それはまた、過去がすべて運命であったと受け入れ、そこに神の痕跡を見出す行為でもある。そして、繰り返し「物語る」という行為を通して、語り部と聞き手の身体の中で、神は何度も復活・再生する。
 
 昨今の80〜90年代リバイバルもまた、そのような機能を果たしているなら、現代に生きる多くの人々にとっては必要なプロセスなのかもしれない。私個人としては、あまりいい気持ちはしないのだが。
 
 
 ところで、映画館の入り口に置かれたタミヤのプラモデルを見て、幼い頃に同じものが家にあったのを思い出した。
 
 F-14戦闘機、通称トムキャット。
 
 ものごころついたときには既にそこにあった気がするので、私が欲しがったものではないだろう。
 
 少なくとも、あれを作ったのは私ではない。